名古屋大学の助教授として地震の研究に携わり、退職後は白川町に移住して農業や地域活動を精力的に行う大井田徹(おおいだとおる)さん。
地域の人が集まって交流できるよう、在宅時には家に”黄色い旗”を立て、来訪者をおもてなしする『コーヒーを飲んで楽しむ会』を開いています。
「変な性格でさ、やり出したらなんでも仕組みが分かるまでやりたいから。そういう生活でだーっと来ちゃったから、おれは何だかよく分からないね(笑)」
飄々(ひょうひょう)とした語り口で過去を振り返った大井田さん。ひとつひとつの物事と向き合い続けてきたこれまでをお聞きしました。
「観測しろ」意図せぬ指令で始まった地震観測
——大井田さんは大学で地震の研究をされていたとお聞きしました。
大学生の時に物理学を学んでたんですよね。その後”地球電磁気学”について学びたくて、その論文を書いた先生のところに行こうと名大(めいだい:名古屋大学の略)の大学院に入った。
その先生に「”地球磁場逆転”についてやりたい」って言ったら「あぁ、あの話は終わった」とか言われてさ(笑)

お話を聞く前に、大井田さんがコーヒーを淹れてくれました
——終わった…
えー!?ってなったね(笑)
そしたら教授の先生が「お前、だれもまだやってないのは地震だ!」って言ってね。
——そんな意図せぬ形で研究がスタートしたんですか(笑)
教授から「小さな地震を観測しろ」って言われて、研究を始めたんだよね。
地震は、マグニチュードが1小さくなるとだいたい数が10倍増える。だから大きな地震を待つんじゃなくて、小さな地震を観測すれば短期間にどこで地震が起こりやすいか分かるだろうって。
——なるほど。
観測を始めたのはいいんだけど、1ヶ所で観測してると地震がどこを震源地に起こったか分からない。3ヶ所以上で観測すると、その時間差でどこで起こったか分かるから3ヶ所で観測しないといけない。
それに観測の精度を上げるために、水晶時計で100分の1秒のタイムキープをやらないといけない。水晶時計があんまりない時代で自分で水晶を買ってきてつくるんだけど、温度で時間がずれちゃうから温度コントロールもしなくちゃいかん。今だと時間を測るのは簡単だけどね、当時はかなり大変でした。

当時は使用できるアプリなどもないため、ソフトも自分でつくっていたとか
——とことん根気と体力のいる研究ですね…
高くて買えないからそういう機械をいっぱい自分でつくったり、自動車でぐるぐる回って記録取ったりやってるから、何やってるか分かんない状態だったね(笑)データが溜まるまでに時間がかかっちゃって、6年かかってやっとドクター論文(大学院の博士課程にて提出する論文)を書いた。
——そもそも教授から言われて始まった研究でしたが…結果として大井田さんの生涯をかけての仕事になりましたよね。
やってるうちに面白くなって(笑)だって誰もやってねえんだから。僕みたいなやつが全国の大学に10人ぐらいしかいなかった。
いろいろ改装改良してだんだん精度を上げて、1日に多い時は100回以上地震が観測されたのをデータで読んで計算して、ソフトもぜんぶつくった。
で、ほぼ出来上がった頃に阪神淡路大震災が起こった。当時は各大学同士のネットワークは良くなってたけど、気象庁はマグニチュード5より小さい地震は大学に任せっぱなしでね。そこからぜんぶノウハウを気象庁に渡して、10年ぐらいかけて気象庁が一括してまとめるようになった。

遊び心がありいろいろなものをつくる大井田さん。ご自宅ではカップラーメンの箱をランプシェードに
研究に捧げた日々も「こだわらず、すっぱり辞める」
–——そういった大変な研究の成果で今の仕組みがあると…
僕はよく言うんだけど、自分はセブンイレブンだって(笑)
——セブンイレブン?
朝7時に出て行って、夜11時に帰って来る。そうしないと仕事ができないから、ほとんど毎日そうだった。
家族をどっかに連れて行く暇がないから、データを集めるための観測点が故障したりすると、土日に修理に行くのに車で乗っけていく(笑)それが旅行だったね(笑)

ご夫婦でお話してくれました。大井田さんはご自宅に学生や留学生をたくさん連れてきたと振り返ります
——それは仕事です…
常日頃、毎日データを見てたんだけど、65歳で定年になって毎日データを見るチャンスがないから「これはもう研究やれんな」と思って。だからもうそういう生活は辞めようと思って、すっぱり辞めた。
——まさに自分の人生の軸というか、懸けてきたものですよね?それを失うことへの抵抗感はなかったですか?
それはなかったね。こだわったってしょうがない。
いいんだ、そんなの。論文読んで、あとはいっしょにやってた若い人が続いてやってくれりゃいいだけの話で、僕なんていなくたっていい。
それで次は農業かなと思って(笑)

「もともと権威主義は嫌いだし」と、退職してからは大学に顔を出さなかったとか
3万円の軽トラで、町内に溶け込む日々
——農業…?
自分は定年になったけど、まだ1年間彼女(奥さんのこと)が勤める予定だったから、どうしようかと思って。
その時次男の嫁さんのおばあさんが病気になって、畑がやれなくなっちゃったって言うから、じゃあ「おばあさんが指示してくれたらおれが動くから」って、大垣市にあるその家まで定期買って通ったの(笑)
——研究以外でもフットワークが軽い…(笑)
農業やりながらこれから何しようか考えてたんだけど、農業も面白いんじゃないかと思ってね(笑)それで、なんだか変な性格でさ、やり出したらなんでも仕組みが分かるまでやりたい。農業のことは知らないから一生懸命本を読んで、考えて、やってたら「農業って結局、化学だ」と思ってね(笑)
当時はいろんなところで『クラインガルデン』っていう、畑のついた建物を募集してた。いろいろ応募してたけどことごとく抽選で外れて、ここ(白川町の農園付きコテージ)も最初は外れたんですよ。

農園付きコテージに併設されている畑
——あ、そうだったんですか!?
でも当たった人がキャンセルして町から電話がかかってきて。「入る入る」って言って、ここへ来たんですよ(笑)
——縁というか…白川へ移住されたきっかけは偶然のくじ運だったんですね。移住されてからはどうでしたか?
元から付いてる畑だけじゃなくて、空いてるところを開墾してやってたんだけど、それでも耕す場所は小っちゃい。だから営農組合の人が働いてるところに行って、いろいろ教えてもらったほうが良いやと思って、草刈り機を買った。
営農組合の人が仕事を始めると、草刈り機を持って行って。最初は体力がなくて30分でクタクタになっちゃうんだけど(笑)いろんなことを教わりながらいっしょにやって、面白かったですよ。

草刈りをする大井田さん
——まさに足を使って学び、地域に溶け込むというか。
2年目からはネットで3万円の軽トラを買ってね(笑)家から双眼鏡で見て「あ、あそこで働いてる!よし!」って出かけて、みなさんと仲良くさせてもらった。
この自治会は当時70軒ぐらいあったけど、名前を覚えようと思ったら新田さんと安江さんと今井さんばっかり(笑)だから一生懸命みなさんの下の名前と、あとは軽トラの番号もおぼえた(笑)
——たしかに白川は同じ苗字の方が多いですよね(笑)溶け込むための努力というか…すごいなぁ。
それでみなさんに仲良くしてもらっていろいろやってたら「竹で炭焼きをやってみないか?」って言われて。佐見地区の炭を焼いてる人に弟子入りをして(笑)3回ぐらいいっしょに焼かせてもらって、自分でドラム缶の改装を繰り返して4年かけて3号機までつくったかな。4年間でずいぶん竹も切ったね。みなさん「うちの竹切って切って!」って言うから(笑)
よくやりましたよ、それで「もう疲れた!」って(笑)

大井田さんが炭づくりの各工程をまとめたもの
身体が動かなくなっても、役に立つ活動を
——大井田さんはそれ以外にも町内でたくさんの活動をされてきましたよね。
営農組合が小学校の総合学習で農業を教えるのを手伝ったり、公民館講座で豆腐のつくり方を習ってから自分でもマニュアルをつくって豆腐づくりの専門になっちゃってさ(笑)子どもたちに豆腐づくりを教えたりもしたね。
あとは、小学校で『ものづくりクラブ』の指導を4年ぐらいやったかな。刻んだ大根を飛ばずダイコン弓をつくったら、校庭大根だらけになっちゃった(笑)割りばしと画用紙でグライダーをつくったら運動部の子どもたちもみんな集まっちゃって、運動部の先生が「まあ…今日のクラブはグライダーで!」とか言って(笑)けっこう楽しかったですよ。そんなことやってるうちに、なんとなく来ちゃったね(笑)

小学校のクラブ活動では、ぜんぶで30種類以上つくったとか
——今は在宅時、ご自宅に黄色い旗を立てられています。
だんだん身体が動かなくなってきたけど、なにかみなさんに役に立つことができるかなと思ってね。
このあたりは喫茶店もなくて、みんなが顔を合わせる機会があんまりないんですよ。だから1年ぐらい前から週に1回公民館で『みんなでコーヒーを飲んで集まる会』を立ち上げたんです。
でも週に1回だと来れない人もいるから、この家に黄色い旗が立ってる時はいつでも遊びにきてもらえればなと思って(笑)趣味でコーヒーも淹れるし、どなたでも来てほしいですね。

自分自身にこだわらず、目の前の物事にこだわり探求心を持つ大井田さん。その口調はどこか飄々としていて、どんな出来事からも『面白さ』を味わう秘訣を備えているように感じました。
【大井田 徹(おおいだとおる)さん】
出身 :群馬県下仁田町
学校 :東京理科大学、名古屋大学大学院
職歴 :教員
趣味 :短歌
読んでいる人に一言 :黄色い旗がある時はいつでもだれでも歓迎です。お待ちしております。
取材年月:2026年3月
※記事の内容は取材当時のものです。

