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「そのおかげで、生きて帰って来れた」

厳しい満州での経験を、中学生に語る

昭和7年(1932年)に日本軍が占領することで成立した満州国。その後昭和20年(1945年)の終戦までに、約27万人の満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)が日本から満州に渡りました。

 

白川町からも総勢662人の『黒川開拓団』が、昭和17年、18年、19年と3度に分けて現地に向かいました。終戦後には現地の人たちの襲撃から守ってもらうために、若い女性に旧ソ連軍への「性接待」を強いたという過去もあります。(参照:https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/ann2.html

 

安江菊美(やすえきくみ)さんは昭和17年3月、小学校1年生(当時の国民学校初等科)の時に家族で満州へと渡りました。

当時の体験を、白川中学校3年生に語りました。(以下は、菊美さんが中学生に行った講義の内容と、別でお話を伺った内容をまとめたものです)

「満人たちはほんとに親切にしてくれた」

——【満州での暮らしについて】

満州の陶頼昭(とうらいしょう)というところに住みました。

満州へ行きましたら、広い広い!山なんてありません。地平線まで続く綺麗な畑、ところどころに防風林の木が10本か20本立ってるぐらいでした。

日本で見る太陽と違って、満州の太陽は大きいんです。ものすごく大きい。太陽が2つあるなと感じました。

母親にそうやって話したら「太陽は1つしかないら」って言われて。「そんなことない!2つある!!」って母親と喧嘩した覚えがあります(笑)

 

家は、元々は満人のおった家に入りました。日本人がその家をどうやって手に入れたか分かりません*けど、臭いでね、人が住んでた場所なのが分かるんです。これが満人の住んでた家です。

*日本側が、現在の約2万円の価格で現地の人から買い上げたという情報も

 

満州の国民学校前で撮られた生徒の写真

満州の国民学校前で撮られた生徒の集合写真

 

入口が1つで、両サイドに分かれているので2世帯ずつ住みました。トイレと風呂がなかったので、それを中間に1つずつつくったんです。

 

満人たちはほんとに親切にしてくれて「食べ物はあるか?」なんて持ってきてくれたりもしました。お母さんたちも仲良くしてたし、子どもたち同士もいっしょに水泳に行ったり、遊びました。

日本語で話しかけると、満人が片言の日本語で喋ってくれて「そうそう!合ってる!」って言って(笑)お互いにそうやって仲良くなりました。

地元中学生への講義で写真を見せる菊美さん

地元中学生への講義で写真を見せる菊美さん。学校が建つまでは、満州の大きな家を学校としていたそう

「そのおかげで私たちは生きて帰って来れた」

——【終戦後について】

昭和19年までは良かった。20年の終戦を迎えて、それから満人たちからの襲撃を受けました。奥地から来た抗日の人たちに、殺された人もあります。

私たちも昭和20年の9月23日に襲撃を受けました。近所のワンさんっていう親しい満人の人が「今度あんたたち襲撃を受けるから、着るものを持ってきなさい」って言ってくれて、それでワンさんのところに着るものを預けました。食料もワンさんが食べさせてくれたこともありました。

落ち着いてから預けたものを受け取りに行ったら、20円だかを着るものにつけてくれていました。

 

とにかく人種が違っても仲良くしておれば、お互いに助けたり助けられたりでやっていけます。

満人と仲良くしてたこと、終戦になってからでも満人に食べ物をもらったこと、そういうことは忘れません。

 

戦後訪中できるようになってその家に行きましたら、違う人が住んでいて「日本人と関わっていた人は奥地のほうへ行かれました」って言われて。かわいそうなことをしたなって思いました。

 

——-【性接待のことについて】

※菊美さんが、中学生への講義とは別で語ってくれた内容

 

その(性接待の)おかげで、私たちは生きて帰って来れました。

15人の娘さんがね、ソ連兵のところへ性接待に出てくださって。私は10歳の時に、そのお姉さんたちの入る風呂焚きをやりました。

母親に言われて自分の入るお風呂だと思って喜んだら、母親が「そうじゃないよ。娘さんたちはソ連兵のところへ行って助けてくださるんだから」と言って、それで炊きました。

中学生にお話しする菊美さん

性接待のことについて「中学生には話せなかった」と別でお話していただきました

 

「菊美ちゃん、ええ風呂やでいっしょに入らんか?」って声をかけてくれる娘さんもいましたけど、私は「叱られるから」って入らなかった。

ほんとに、その15人の娘さんのおかげで黒川開拓団は助かりました。そうじゃなかったら、隣の来民(くたみ)開拓団*みたいに集団自決してました。

*黒川開拓団の近隣に入植した熊本県からの開拓団。1人の証言者を残し、200名以上が現地住民の一斉蜂起を前に集団自決をしました。黒川開拓団は662人のうち208人が死亡、残留孤児3人を中国に残し、451人が帰国しました。

 

——-【終戦後の生活】

もう食べるものがないし、ほんとに厳しい生活でした。馬の飼料を炊いて食べましたが、なかなか喉を通るようなもんじゃなかったです。噛んでも噛んでも喉を通りません。それでも噛んでるうちに唾液で腹が膨れたような気になりました。

 

発疹チフスも蔓延しました。黒川開拓団とは関係のない衛生兵の方が、薬品を持って黒川開拓団に入ってこられて、医務室を開いてくださいました。

黒川開拓団は駅に近い開拓団だったから、いろんな人が入ってきました。

 

私は5人兄弟でしたけども、私と妹は生きて帰りましたけど、その下は3人とも満州で亡くなりました。

「挫けないように、頑張るのがいちばん大事なこと」

——【帰国後の話】

満州から帰って来る時も難儀でしたけど、日本へ帰って来てからも食べるものもない、住む家もない。日本も食料難時代で、配給はきましたけどそれだけでは腹が膨れません。

ほんっとに難儀して、本家の方の家にお邪魔させてもらいました。

その後は4畳半の小屋をつくってもらって、筵(むしろ)2畳に3人寝まして、半畳は靴を脱ぐところ、半畳は囲炉裏、そんな感じでした。入口の戸はトイレの戸を外して付けてくださいました。

 

私が小学校5年生か6年生の時です。食べるものがないから私と妹と2人で山に行って「これは苦いでだめだ、これは食べれる」って言いながら、葉っぱを食べてお腹を膨らませました。

中学生とお話する菊美さん

仕事を手伝うなどして、中学1年生まではほとんど勉強できなかったと言います

 

私は小学6年生から黒川の学校に行きましたけども、終戦して1年間勉強してないからなんにも分からないんです!それでも学校へは行きました。

本家のおばあさんに草履をつくることを習って、それを履いて行きました。道も今のようなコンクリートじゃなくて柔らかい砂利道で、すぐ草履が破れちゃう。それで次の日もまた草履をつくって。

中学3年生になった時に父親がシベリアから帰ってきて、それからはご飯も食べられるようになったし、しっかり勉強できるように中学まで卒業することができました。

同じ同級生でも、満州から帰ってきた人で中学2年生から仕事に行かれた人もいます。

 

ほんと、厳しい時代でした。

でも挫けないように、頑張るのがいちばん大事なことです。「できるから頑張る、できないから頑張らない」というんじゃなくて、とにかく一生懸命頑張ることです。

お話する菊美さん

 

「こうやって話して伝えるのは難しいけど、とにかく戦争はだめだってこと。どんな形でも戦争はだめだってこと」

そう語った菊美さん。

ニュースを見ても、時間が経てばすぐに他人事化してしまう戦争や紛争。そんな自分が嫌になることもあるけれど、平和な時代を生きる僕らには、いつまでもその自分と向き合っていく責務のようなものがあるのではないでしょうか。

 

取材年月:2025年12月 

  • 取材執筆/写真:

    澁谷尚樹

  • 監修:

    白川町役場振興課

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家を『屋号』でよびあう慣習が根づく白川町そんな町の想いを集め人と集落と未来をつなぐ