縦向きにしてください

「絵を描きたい」

戦争・病気…未来が分からないなか残し続けてきた『今の感情』

白川町にある『大賀医院』

長尾剛(ながおたけし)さんはそこで長年事務局長として勤めながら、白川町で絵描きや美術教師としても活動されていました。

剛さんが描いた絵は、白川町の町民会館や小学校、郵便局などに展示されています。

 

戦前と戦後という時代が揺れ動くなかで青春時代を過ごした剛さん。

「とにかくその流れのなかに巻き込まれていくしかなかった」と過去を振り返り、丁寧にこれまでの人生を語ってくれました。

 

太平洋戦争中の生活

——剛さんのこれまでについてお聞きしたいです。

僕は昭和6年の生まれでね、小学4年生ぐらいの時に太平洋戦争が始まった。当時は飛騨のほうの小学校におったね。

——絵はその頃から描かれていたんですか?

そう、小学4年生の時に軍隊の馬を描く機会があってね。それが県で表彰されて、24色入ってるクレパスを貰った記憶がある。

普通クレパスは10色ぐらいだったでしょ?それを貰ったのが嬉しくて、本格的に絵を描くようになった。

剛さんのアトリエに飾られている絵

剛さんのアトリエに飾られている絵

 

—–たしかにそれは嬉しいですね…!小学生が「軍隊の馬を描く」というのは今では想像がつかないですが、当時の生活はいかがでしたか?

僕が旧制の中学校に入学したのは昭和19年の4月でね、すぐに4年生と5年生(旧制中学校は5年制)が学徒動員で戦場に引っ張られていった。夏前には3年生も軍事工場に引っ張られて、そういう時代だったね。

——次々と制度が変わり、国の大きな力に巻き込まれるしかないというか…

そう、太平洋戦争のせいでめまぐるしく制度が切り替わる時だった。

岐阜の町も昭和20年の7月に空襲で丸焼けになっちゃった。岐阜で学生をしていた姉を訪ねるために、空襲の後に岐阜駅で降りたら何にもないんだよ。

銀行や県庁の鉄筋コンクリートの建物がぽつんぽつんと見える。後はみんなが寝泊まりしてる小屋がつくられてるだけの、まったくの焼け野原でしたよ。

お話する剛さん

「良いか悪いかは分からないけど、戦争の時代と今の時代の両方に渡っていろんな経験をした」

 

——実体験のお話を聞くと戦争の恐ろしさがより伝わってきます…剛さんはどんなお気持ちで過ごしていたんでしょうか?

もうね、どうしていいか分からない。とにかくその流れに巻き込まれていくだけでね。

戦争中は、学徒動員みたいな普通では考えられんことが制度の上で起こって、そして終戦したらそれまで起こったことが全部無くなるんだよね。

国がつくった中学校の教科書には真っ黒に炭が塗ってあったりね。*

*墨塗り教科書:終戦直後、進駐軍が「教科書のうち戦争の意識を高めるような部分は墨汁で塗りつぶして読めないようにする」という命令を出したことによるもの。

 

——その環境だと、今のように「こうしたい」という考えや希望を持てないですよね。

それまでは「勉強して、卒業して、こうなろう」というのがあったと思うんだけど、一時的には何にもなかった。

僕の兄2人も戦死せずに戻って来たけど、兵隊として戦地に出征していた。そういう時代だったね。

お話する長尾剛さん

次男のお兄さんは2年間のシベリア抑留を経て帰国したといいます

 

絵に没頭する学生時代

——そんな環境の中でも、剛さんは変わらず絵を描き続けてきたんですね。

そう、終戦の後は坂井範一(さかいはんいち)*先生っていう人のところへ高校生10人ぐらいで集まって絵を描いたり、戦後の美術の動向なんかを語ったりしたね。

*日本の美術家団体である『新制作協会』会員の洋画家。1949年に岐阜大学学芸学部芸術家の教授に就任する。

 

——時代が変わっていく中で、剛さんは目の前にある絵に没頭していたんですね。

坂井先生が教授になったこともあって岐阜大学に進学したけども、勉強よりも絵ばっかり描いていたね(笑)

夏休みのいちばん暑い時期に美術教室に寝泊まりして描いたこともあった。

剛さんのアトリエ

剛さんのアトリエ。今も作品や資料が所狭しと並びます

 

——県で表彰された子どものころから、変わらない気持ちで絵と向き合っていたんでしょうか?

そうだね、絵が好きだった。昔は絵を仕事にしたかった。

白川町に来てからもずっと描いてたよ。今は体調の問題で描けていないけど、元気になったらまず絵を描きたいね。

——変わらない「好きなもの」と向き合い続けてきたんですね。剛さんが描く絵にはテーマなどはあるんでしょうか?

僕は抽象的なものじゃなくて、風景なんかの実際のものを描いてるから、物から受けた感情を大事にしてる。

「これ面白いな!」って思ったものを写真に撮って、描いていく。

——何を見て、何を感じるか、ということが大事なんですね。白川町での生活が剛さんの絵に大きく反映されていると思うと、なんだか嬉しいです。

僕は高校生の頃、通学路で桑畑があってそれをよく見てた。

大学生になって姉が住んでいた白川町を訪れた時に『桑の木に雪が降って真っ白になる』風景を見てね。高校生の時を思い出して絵に描いた。その絵は岐阜県で賞を取ったりもしたね。

岐阜県で賞を取ったという『桑の木』の絵

大学生の時にお姉さんがいる白川町を訪れて描いた『桑の木』の絵

 

成り行きがつくる白川町での日々

——白川町へは、お姉さんが働かれていた蘇原地区の『大賀医院』で事務局長として働くために来られたとお聞きしました。

周りは大学を卒業して教師になっていったけど、僕は結核を発病しちゃってね。どうしても休まなくちゃならなくなって、療養所に3年間入って3回手術した。そのお陰で今も生きてるんだけど、辛い時期だった。

その後に2年ほど名古屋で生活してから、大賀医院が事務局長を探していたこともあって姉の紹介で昭和40年ごろ白川町に来ましたね。

剛さんご夫婦と、ロシア人のチェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ氏

写真は音楽家の小澤征爾氏が、ロシア人のチェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ氏(写真中央)らと白川町で音楽演奏を行った時のもの。剛さんは写真左、奥さんが写真右

 

—–時代だけでなく、病気もまた自分ではどうしようもないことですよね…

昔から身体が弱くて、小学生の頃には結核の初期症状も出ていてね。父親が「剛は長生きできないだろうから、家族みんなで大事に育てよう」と言って育ててくれた。

——ご家族の愛情が、長生きをしている今に繋がっているのかもしれませんね…!白川町での生活はいかがでしたか?

自然の環境も暮らしやすくて良い場所だし、事務の仕事以外にもいろんなことをさせてもらって楽しかったね。

中学校や高校で美術の先生をやったり、絵画教室をやったり。白川に来てからは渓流釣りもずいぶんやりましたよ。毛針を自分でつくって釣る『テンカラ』っていう釣り方でね。

——白川の環境や、ご自身のこれまでのご経験を活かした楽しみ方ですね!

他にも、共通の知人がいたことで辻宏(つじひろし)*さんと親しくさせてもらって、僕は白川から初めてイタリアのピストイアに訪れたメンバーだった!

*白川町の黒川地区に工房を構えていた世界的なオルガン建造家。イタリアのピストイア市にある歴史的なオルガン修復に携わったことから同市の名誉市民となり、白川町とピストイアは友好都市になった。

 

エスプレッソを淹れてくれる剛さん

イタリアに行った時に気に入り今も飲み続けているというエスプレッソを振舞っていただきました

 

——そうだったんですね!白川町の偉人の辻宏さんと!

イタリアからの交換留学生がホームステイ先としてこの家に泊まったこともあった。アトリエとして使っていた離れに泊まってもらって、言葉も分からないから辞書を見ながら話したりしてね(笑)

白川町に来たことも、辻さんと知り合ったことも、いろんなことが成り行きみたいなことで進んでいったけど、楽しい時間だったね。

——抗えない時代や制度の流れに身を置きながら、ご自身の「やりたいこと」を深めていった剛さんだからこその生き方だと思います。最後に、剛さんがこれからやりたいことはありますか?

絵を描きたいね。

僕は小学生の時から、実際の風景を見て描くことをずっと続けてきた。いつ最期が来るかも分からないから、もう1つぐらいは描いておきたい。

笑顔の長尾剛さん

 

抗えない時代の流れやご自身の病気と共に生きたからこそ、剛さんは「今」を大事にされてきたのかもしれません。

 

「今目の前にある風景」を切り取った剛さんの絵。

絵を描く時にどんな感情の揺れがあったんだろうと、じっくり想像していたくなりました。

 

長尾剛(ながおたけし) さん

出身   :下呂市馬瀬

学校  :岐阜第二中学校(現岐阜県立加納高等学校)、岐阜大学教育学部

職歴  :事務(大賀医院)

趣味  :渓流釣りテンカラ釣り)、カメラ、車

 

取材年月:2023年07月 

  • 取材執筆:

    澁谷尚樹

  • 写真:

    服部健人

  • 監修:

    白川町役場企画課・Anbai株式会社

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