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「今日、日が暮れていきゃいい」

96歳の新聞配達員が過ごした『青春と戦争』の日々

国の土木遺産に登録され、まちのシンボルでもある『白川橋』

白川橋の様子

 

橋のふもとにある『丹羽(にわ)新聞店』で働く丹羽れいさんは、昭和28年の創業時から96歳になった現在も現役で仕事を続けています。

元々は蘇原地区出身。昭和20年(1945年)18歳の時、勤務先である岐阜市の郵便局に通うために現在の家に下宿を始め、その家で暮らしていた旦那さんと終戦後に結婚しました。

 

「今日、日が暮れていきゃいい(笑)」

そうご自身の生き方について語ったれいさん。幼少期から戦争がすぐ側にあったこれまでの経験をお聞きしてきました。

96歳になっても働き続ける理由

——れいさんは、今も現役で働かれているんですよね?

まだ現役でやっとる(笑)

——すごいなぁ…おいくつですか?

いくつに見える?(笑)

お話するれいさん

この日は「新聞社のなにかの景品でもらった(笑)」という、レモンがプリントされたエプロンを着用されています

 

—–…えっと、、、ごめんなさい、まったく分かりません(笑)

96!今は月末に、自転車で10軒ぐらいの集金に行くだけやけど?他の家の集金とか配達は息子がやるし、今は引き落としが多いでね。

—–96歳で自転車で走っているんですか…!

ずーっと続けとるで。

みんなと話もできるし、生きがい(笑)仕事よりも喋っとる(笑)

——長い現役生活のなかで、強く印象に残っていることはありますか?

台風が来た時や、雪が降った時は大変やったね(笑)

これぐらい(膝下ぐらい)まで積もって、坂の上にある家に配るのに登っていくと、帰りはもう足跡あらへん。どんな天気でも配らなあかん。

当時の休みはお正月だけやったかな?えらい(「しんどい」、「大変」という意味の方言)かどうかとかじゃなしに、生活せなならんもんで。生活の糧や。

今は多かったら月に1ぺん休みがあるけども、当時は休みなんて気にできる時代やなかったね。

販売所の一角の様子

販売所の一角。以前はここで駄菓子などを販売していたそう

 

「ずーっと戦争中」の10代の記憶

——「えらいかどうかじゃない」というのは、すごく考えさせられる言葉です。

まあでも、新聞屋のことはあんまり思い出さんね(笑)それよりも若い時に空襲で逃げた時代のことやら、いろいろ。

——戦時中のことですね。

逓信(ていしん)講習所*っていうのが愛知の鳴海(現在の名古屋市緑区鳴海町)にあったもんで。郵便局の学校のような場所で、18歳やった昭和20年の1月10日から6月25日までの半年間そこにおった。ちょうど日本本土が空襲の盛りの時。

*逓信官吏練習所。1949年まで存在した、日本の郵便、通信、運輸を管轄する中央官庁である『逓信省』の職員養成機関

 

お話するれいさん

学校入学前の12月に、愛知で大きな地震(1944年(昭和19年)12月7日に起こった昭和東南海地震)があったことも覚えているとのこと。「大根洗いよったら、溝の流れがじゃーっと濁った覚えがある」

 

——日付までしっかりと覚えているのは、きっとその後に何度も思い出した日々だったんですね。

学校の近くは畑ばっかりやけど、住友工業*があったもんで。そのあたりに1トン爆弾(アメリカが使用した爆弾の、日本側の呼称)なんかが落ちると、そこに家が3軒入るぐらいの穴がぼーんと空く。防空壕ですくんどって、両方から火が入りそうになると裸足で逃げた。

まだ自分らのラジオがある時分じゃないから、みんなが「愛知時計(名古屋市熱田区にあった工場)がやられた」「ああやげなこうやげな(「~げな」は「~らしい」という方言)」とか、そんなんや。

そのあと親戚の家やったここに下宿して、岐阜市の郵便局へ入った。

*当時、軍需工場として『住友金属工業』が鳴海町にあった

 

——「状況がよく分からないけれど、命が危険な場所にいる」という状況は、すごく感じるものがあります。旦那さんは下宿先のご親戚だったんですね。

なんでやしらん、そのままいついちまった(笑)

岐阜は7月の9日に空襲にあって、ここから山際の空があこう(赤く)見えたよ?空が明かるく見えて、みんなが「あそこは岐阜や岐阜や!」ってそう言ってたで。

勤めてる時やもんで、次の日には行ったわ。電車は岐阜市の長森までしか動かんから、そこから歩いて行ったら勤めてるとこがどこか分からん。案内してもらったら、そこに旗だけ立ってあとは焼けてまっとる。

れいさんの家から、岐阜市方面を見た景色

れいさんの家から、岐阜市方面を見た景色。青い橋は1960年に架設された『飛泉橋(ひせんばし)』

 

——以前の取材(https://yeahgoshirakawa.com/article/1071/)でも、空襲を受けた後の岐阜市は「焼け野原だった」という話をお聞きしました。

終戦の日も岐阜市におったよ。「改まった話があるで、みんなラジオを聴かなあかん」って聴いたら、天皇陛下が「終戦になった」って。

けど今のようにラジオの性能がええ時代やないで、なんや分からなんだ。そのあとみんなが言うで「あぁそうか」って。18歳の時や。

——それを知った直後は、どういった気持ちになるんでしょう?

それほど感じられへんわ(笑)終わったってことは「今の空襲に遭うことはないな」って思うだけ。

小学校3年生から志那事変(1937年に始まった『日中戦争』のこと)が始まって、ずーっと戦争中やで。名古屋に出るまでは白川の山のなかやもんで、あんまりピンとこんよ?

蘇原地区赤河から出征する人の祈祷を行った『赤河神社』

蘇原地区赤河から出征する人の祈祷を行った『赤河神社』

 

——戦争中であることが当たり前、というか…

子どもの頃は、みんなで兵隊に行く人らを送りよったでね。兵隊に行く人は、お宮様(上記写真の『赤河神社』)で御祈祷してもらって、それからずーっと白川口の駅まで歩いて行く。それを途中まで送るわけや。

戦争がだんだん進んでくると、今度は戦死する人があるで。そうすると村葬(そんそう)ってやつをやるもんで、子どもたちもみんな参加する。

楽しい、遊んで歩くようなことはぜんぜんあらへん。銃後を守る。

お話するれいさん

「小学校3年からやで、そういう、戦争に慣れてまった」

 

——じゅうごを守る?

当時はみんな「銃後を守る*」って言っとった。

今の人たちからしたら、私らが侍時代を思うぐらいやら?(笑)

*「銃後の守り」:直接戦闘に参加するのではなく、軍隊が消費する資源・物資の供給を支えることによって戦争の遂行と勝利を支援するという考え方

 

「今日、日が暮れていきゃいい」

——そういった10代での経験が、れいさんの土台にあるんですね。

小学校行くには自分らで藁の草履をつくって、12月いっぱいまでは藁草履に靴下も履かず山道を1時間かけて歩いてね。そんな”物のない時代”に育ってるで。

新聞屋を始めたのは昭和28年から。それから、だいぶ経つね。

当時は店の前にある『白川橋』の床も木張りで、腐ったところの板はその上から張り直しとるもんで、みんな躓いて転んで(笑)それに橋の上をバスも通っとったでね。

——え、バスですか!?

道幅いっぱいに通るもんで、子どもらはあんまり外へ出せなんだ。車が通るとガタガタ音がしとったで。

『白川橋』前での、昭和30年代のお祭りの様子

昭和30年代のお祭りの様子

 

——そこから70年以上現役で働き続けています。長い年月で大事にしてきたものなどあればお聞きしたいです。

何にもそんなもんはあらへんで(笑)記録に残るような、記憶に残るようなのはない。

今日、日が暮れていきゃいい(笑)

今はこの自治会で月に1回ぐらい集まりがあるわ。それに行ったり、月末がくりゃ「集金せなならんわ」と思うだけでよ。

集金もボケて間違えるようになりゃあかんけど、その時は読者のみんなから声がかかるで大丈夫や(笑)

『白川橋』のふもとに立つれいさん

 

「ずーっと戦争中やで、あんまりピンとこんよ?」

れいさんの飾らない言葉には、史実や報道などに脚色されない、れいさん自身の目で見てきた個人的な”生きた歴史”が詰まっているような気がしました。仮にこの取材を通してお聞きできたことがれいさんの人生のほんの少しだとしても、こういった歴史がなくならないように紡いでいきたいと強く思います。

 

【丹羽 れい さん

屋号   :一力屋

出身   :蘇原地区

学校   :名古屋逓信講習所

職歴  :新聞販売

 

取材年月:2025年1月 

※年齢等は取材当時のものです

【丹羽新聞店】

 

※丹羽れいさんも登場する『白川橋』に関する記事はこちら

https://prtimes.jp/story/detail/b6PpylIZ7dx

  • 取材執筆/写真:

    澁谷尚樹

  • 監修:

    白川町役場企画課

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