黒川地区で、無薬で育てた豚肉『あんしん豚』を販売する有限会社藤井ファーム(以下:藤井ファーム)。代表である藤井拓男(ふじいたくお)さんは、中学生の時から地元で農場をつくることを夢見て、60年近くその想いに従い行動し続けています。
「白川は”過疎”って言われるけど、他にないような美味しいものをつくれたら、この山のなかにもみんなが来てくれると思う」
お茶農家から始まった拓男さんの農家人生。その後の養豚への事業の転換や、それまで使っていた一切の薬をやめた”無薬での飼育”への切り替えなど、変わらない夢を追いかけ前進し続けてきた半生をお聞きしました。
お茶農家から、畜産農家へ
——『あんしん豚』は食べた時、お肉の旨味がしっかり味わえて食感も良いという印象です。「無薬で育てる」という特徴がそうさせているんですね。
そうやな。ワクチンなんかは、国で義務付けられているもの以外は一切使わない。
普通の養豚では子豚が産まれてから180日ぐらいで出荷するけど、うちは広いところでゆっくり育ててるから210日ぐらいで出荷する。食べ過ぎて調子が悪くならんように、エサの量も制限して、週に1回日曜日は水以外は与えない”断食”もするんやわ。
それが肉本来の味わいとしっかりした食感になってるな。

脂も美味しく食べることができる『あんしん豚』
——養豚で断食…!初めて聞きました。
「腹八分目に医者いらず」ってことわざ、昔の人はよう分かって言ったなと思ってよ!
おれらも日曜日は何も食わずなら、ほんとに医者いらずぐらいになるんやろうけどよ。日曜日は家におってお茶飲んで食ってしよる(笑)
–—–なんだか日々の生活を考えさせられますね…(笑)最近『有機農業』はよく聞く言葉になりましたが、養豚ではあまり聞いたことがありません。昔から無薬での飼育だったんですか?
そもそもうちは最初はお茶農家でよ、豚は堆肥をつくる目的で飼い始めたんやわ。

平成12年(2000年)に撮影された藤井ファームの様子。当時はまだ茶畑がたくさん残っています
–—–あ、そうなんですか!?
親父たちが戦後満州から引き揚げてきて、4軒がここに入植したんやな。
それで昭和40年頃に白川町で「茶畑を増やそう」って動きがあって、茶畑を開墾したら国から補助金が出たんやわ*。それにうちらも乗っかって、やったわけ。
*『農業構造改善事業』という、農業経営の規模拡大などを通して、農業の生産性を高めるための事業
おれがちょうど中学になった時分かな?ブルドーザーで山を削っただけのようなところを4軒あるから4つに区割りして、それを手で開墾していった。
——以前の取材でもお茶の『ますぶち園』さんの開墾のお話(https://yeahgoshirakawa.com/article/1180/)を聞きました。
でもここは寒いし、毎年霜が降りるからお茶はちょっとしか採れんのよ。それで生活していくっていうのは大変やった。
だからお茶の期間以外は野菜を育てて、堆肥をつくるために10頭の子豚を飼った。親父たちはそれだけじゃなくて炭を焼いたり山仕事もやりよったな。

量が採れず、寒さで出荷時期が遅くなってしまったお茶も、他との差別化を図るために「無農薬で育てていた」と言います
4年間の我慢の先にたどり着いた『あんしん豚』
–——堆肥づくりのための10頭の子豚から、徐々に畜産業に切り替わっていったんですね。
子豚を買ってきて大きくなると出荷してたんやけど、当時は日本人がだんだん豚肉をたくさん食べるようになったんや。それで豚がけっこう良い値段で売れていくようになった。
お茶も同時にやってたけど、畜産のほうが出荷までの期間も早い。そういうのもあって、畜産でもきちんと儲けようと三重県まで種豚を買いに行って、どんどん増やしていったな。
——事業として始めた当初から、無薬で育てていたんですか?
無薬にしたのは平成4年からで、それまではワクチンや鉄剤、ペニシリン、何十種類と使ってたな。それで規模を拡大して多い時は親豚が120頭近くおって、年に1600~1700頭ぐらい出荷しよった。
無薬にした今はガクッと減って、親豚は40頭ぐらい。9割ぐらいは加工から販売までを自分のところでやっとる。

焼くだけですぐ食べられるオリジナルの『味付け肉』など、たくさんのラインナップが!
——量を減らして自分たちで手をかけて販売している、と。無薬にするきっかけは何だったんでしょう?
たくさん薬を使ってるとさ、金額的にもけっこうかかるんやわ!それに薬を使ってると効き目が悪くなってきて、その薬に免疫のあるやつが出てくる。それをまた新しい薬で治すやろ?でもまた新しいやつが出てくる。その繰り返しで、なんだか薬屋さんのために薬を買ってるようなもんやと思ってよ。
でも堆肥づくりのために豚を飼ってた昭和のある時分までは薬はなかったでさ。せやから薬がなくても飼えるはずやと思って、やめてん。
——何十種類も使っていたものを、いきなりゼロにされたんですね…!
「無薬じゃなくて減薬にしたら?」ってよう言われたんやわ。
でも、やるなら白か黒かどっちかやろ!って言って。「薬を今までよりも少なくする」っていうのは、元々どれぐらい使ってたかの基準が人によって違うもんで、おれにはあんまり意味がないように思えた。
そうやって無薬で続けたおかげで今じゃみんな理解してくれるしうまくいってるけど、最初は豚がバタバタ死んでいったわ。
——きっと参考になる育て方もまったく分からないですよね。
当時は市販の餌にはぜんぶ薬が入ってるから、餌も自分たちでつくらないといけなかった。ちょっと発酵させてみたり、いろんなものを入れてみたり、藁にもすがる思いでいろいろやったわ。
それで4年ぐらい過ぎてからだんだん良くなっていった。4年間我慢すりゃ、だれでもできるよ。石の上にも、3年やったか?ちょっと3年では無理やったけど(笑)

「無薬にして、それでどうやって売ろうとか、そういう考えもなしに始めた(笑)」と当時を振り返ります
中学生からの夢に向かって、前進あるのみ
——4年間それだけ厳しい環境で我慢し続けることが何よりすごいと思います。
当時は餌代も安いし、豚価も高かったから続けられた。今の価格じゃ3年もせずに潰れてたかもしれんな(笑)
はじめはブロック肉だけで売ってたけど「スライスしてくれたほうが良い」って意見が出てきたからスライサー機を買ったり、徐々にいろいろ種類を増やしていった。
豚肉に塩をすり込んだ『塩豚』は、日本農業新聞の大会で金賞に選ばれた*。
*日本農業新聞で掲載される全国各地の特産加工品を紹介する「一村逸品コーナー」のなかから、毎年特に優れた商品を選び表彰するもの。藤井ファームの『塩豚』は2008年に金賞を受賞しました(https://anshinton.co.jp/fr/25)
今は事業のことは息子に任せてるけど、『豚肉のニンニク醤油タレ漬け』っていうのをつくるために去年からにんにくを植えて育ててるんやわ。こうやっておじいになっても、畑つくったりでけっこう仕事あるし、ありがたいわ(笑)

事務所に飾られているこれまでの表彰状
——拓男さんは新しい挑戦含めていろんなことを乗り越えてきたと思いますが、その行動を支えるものってなんなんでしょうか?
中学生の時から、地元の黒川でひとつの農場をつくりたかったんよ。それが自分の想いで、どんなことがあってもそこに向かって前進あるのみでここまできた。
時代によっていろいろ変わってくるものがあるから、最初はお茶から始まり畜産になったけど、とにかく農場をつくること一筋やった。
——農場をつくること、ですか。
白川は”過疎”って言われるけど、他にないような美味しいものをつくれたら、この山のなかにもみんなが来てくれると思う。その想いで以前は敷地内にバーベキューハウスをつくってたんやわ。お肉を買いに来た人がタダで使えるように貸し出してたんやけど、そこが火事になって。「拓男さん、そんなタダで貸しとって!二度とやったらあかんよ!」って叱られた(笑)
そうやって結果として裏目に出たようなこともあったけど(笑)でもその想いは今も変わってない。

今も残るバーベキューハウスの看板。山の上にある場所からの景色に、心が落ち着きます
——その想いが、新しい挑戦や辛いことを乗り越える原動力だったんですね。
つくった人の想いが伝わるようなもので、みんなを招くことができればと思うね。それはうちだけやなくて、今は有機農業なんかでIターンで来てる人がいっぱいおるから、そういう人たちもいっしょになってやっていきたい。
それで黒川へ、大きく言えば白川町へ、来て欲しいな。
100人以上いた中学校の同級生のなかでただひとり、1度も黒川を出ることなく農業に関わり続けてきたという拓男さん。
苦労話や失敗談も明るく振り返る様子は「自分の想いを裏切らない失敗は、失敗じゃない」と教えてくれるようでした。
【藤井 拓男(ふじいたくお) さん】
屋号 :杉の木屋
出身 :黒川地区
学校 :白川町立黒川中学校
職歴 :農家
趣味 :ドライブ(2024年秋:東北 2023年秋:九州へ)
読んでくれている人に一言 :「継続は力なり」何事もあきらめず頑張ろう
取材年月:2024年10月