黒川地区で、白川茶の栽培から販売までの全工程を一貫して行う『ますぶち園』。現在94歳の田口昭吾(たぐちしょうご)さんは、創業者の一人です。
『ますぶち園』の始まりは、昭和41年に7軒の農家が集まり山野を開墾し茶畑にしたことでした。
「当時は『7人の侍』って映画が流行ってね(笑)その7人の侍で開墾を始めた」
戦争や自然災害、茶畑の開墾など、数々の苦労を乗り越えてきた昭吾さん。これまでの90年の歩みを伺ってきました。
『7人の侍』で行った茶の1万2千本の定植
——昭吾さんがお茶に携わったきっかけは何だったんでしょう?
昔は林業で生計を立ててたけど、昭和34年に伊勢湾台風があってね。すごい大型の台風で、山の木がぶわーっとぜんぶ倒れちゃった。出荷できる木が一時的になくなって、何か代わりにできるものはないかなとお茶を思いついたわけ。
——林業の代わりにお茶、ですか。
子供の頃は畑にちょっとあるお茶を摘み取ってね、それを近所に2、3軒ある小さなお茶屋さんに売りに行ってた。
当時は長野にお茶があんまりなかったから、お茶屋さんは買い取ったお茶を長野県に持っていって家庭販売してたんやね。
当時から白川茶の評判は良くて、長野には「白川茶しか買わない」っていう人もいた。
–—–その記憶が、お茶の事業を思いつくきっかけになったんですね!
そうやね。当時は農業構造改善事業*というのがあって、開墾すれば国から補助金が出た。
*農業経営の規模拡大などを通して、農業の生産性の工場を高めるための事業
開墾して茶畑をつくろうとした当初は30人ぐらいが集まっていたけど、やり方や運営の方法についての話し合いで人が減って、最後にまとまったのが7人。その時の僕がいちばん若くて、30歳ぐらいやったね。
——それが『ますぶち園』の創業者の方々になるわけですね。
当時は『7人の侍』って映画が流行ってね(笑)その7人の侍で開墾を始めたわけ。
お金は補助金が出るけど、労力だけは自分たちで出さないとあかん。借りてきたブルドーザー1台ででこぼこの山を走って、鍬で掘ってお茶を植えた。約3年かけて、ぜんぶで1万2千本かな。
——機械はブルドーザー1台だけで、7人(の侍)で1万2千本ですか…!想像もつかないぐらいの重労働だと思います。
辛かったことや大変だったこと、数え切れんぐらいあったね。
子どもの頃は貧乏だったもんで、それが原動力になった。貧乏だった当時を思い出すと、重労働も乗り越えることができた。
「人に喜んでもらいたい」気持ちで、白川茶を全国へ
——きっとたくさんの経験をしてきた昭吾さんたちだからこそできたことですよね…!そこから販売が始まっていくんですか?
東京に黒川出身の藤井丙午(ふじいへいご)*さんって方がいて、その人が「東京にお茶を売りに来てくれ」って言ってくれたんよ。
*黒川村(現在の黒川地区)出身の政治家、実業家
植えて3年目に収穫できるようになって、当時は機械もないから摘んだお茶を手で揉んで、30本ぐらいの缶に入れて持って行った。ちょうど新幹線が初めて通った時で、それに乗ってね。
——縁が繋がって、立ち上げ当初からいきなり東京ですか!
丙午先生に会ったら「よう来てくれた!どういうところで売りたい?」って聞かれて。
東京のことなんかぜんぜん分からんから「先生のお勧めのところでお願いします」と言ったら、日本橋にある百貨店の三越本店に連れていかれた。
——丙午さん、すごい方だったんですね!どんどん駆け足で都心のど真ん中に白川茶が案内されていくというか…!
「東京へ来たら三越がいちばんええぞ」って言われてね(笑)
それで三越の販売部長に会って、お茶を飲んでもらった。そしたら「これは美味しい!このお茶なにか他のものを混ぜてないか?」って。
——それだけビックリする美味しさだったんですね(笑)
そこから東京に5店舗あった各店舗の部長に試飲をしてもらったら、みんなが「うちに来い来い!」って(笑)それぞれの店舗で1週間ずつスペースをもらって販売させてもらって、大変やったけど、とにかく頑張って行ったね。
そうやってだんだん販売が始まって、全国から「売りに来てくれ」って言われたから僕も日本全国いろんなところへ行った。
——そうやって全国に白川茶が広まっていったんですね!
時の流れの運もあったけど、よう生きてきたもんやと思う。
戦争も経験して、たくさん貧乏も味わった。貧乏はしちゃいかんけど、それよりも悪いことはしちゃいかん。人に喜んでもらうことがいちばん大事。仕事もその気持ちでやってきたのが、今に繋がってると思う。
記録から消えた『農兵隊』としての、忘れられない戦争体験
——お話にあった戦争中のことについてもお聞きできますか?
尋常高等小学校(当時の高等科まで一体となった8年生の小学校)の1年生の時に、日中戦争*が始まった。終戦する年に、僕は14歳でその小学校を卒業した。だからぜんぜん勉強も習えなかった。
*1937年に大日本帝国(当時)と中華民国(当時)の間で起こった武力衝突。
——学生時代を戦争と共に過ごされたんですね。
卒業直前の3月に『農兵隊』というのに招集された。
若者が戦争に行って農家に人がいないせいで食べ物がない。だから14歳ぐらいの子どもに農業を教えて畑を開墾したり、農業や土木に携わることを1年間するように命令が出たんやね。
でも、県庁に行ったりどこを探しても『農兵隊』に関する記録が何も残ってない。だいぶ努力してあちこち調べたけどね。
——僕も初めて聞きました。そうやって資料が残らず、公式にはなくなってしまった情報がたくさんあるんですね。
僕らの年ぐらいまでしか戦争の記憶は少ないし、もう亡くなってしまった人も多い。
農兵隊で岐阜市に行った時は、山を開墾してサツマイモを植えるという命令があった。寝泊まりしてるところから作業場所までは片道5キロぐらいあって、開墾道具を担いで毎日通ってね。食べ物は飯盒(はんごう)に入れた山芋だけ、ほとんど飲まず食わずやった。
帰ってご飯を食べる時も、米のなかに小麦を混ぜた小麦ご飯。ほとんど小麦で、今思うと食べられへんよな。でも食べないと死んじゃう。
——戦火の及んでいない場所でも、それだけ過酷な環境だったんですね。
それ以外にも、農兵隊の着る服がないから、夜に工場に行って自分たちで着る服の縫製をする日もあった。
それをしてると空襲警報が鳴った。岐阜空襲やね。
木工の橋に火がついて、橋のこっち側は火の海やった。「こらあかん!」と思って大急ぎで走って、帽子と上着を頭から被って火の橋を渡って逃げた。頭がジャリジャリって髪の毛だけ焼けて、それでなんとか逃げてきた。
今でもその光景が、頭の中で妄想みたいに動きよるね。
自分の手をじっと見れば、答えが書いてある
——聞いているだけでも恐ろしくなります…きっとそのすべての壮絶な経験が、その後の昭吾さんの活動に繋がっていくんですよね。
学問はしてないけど、若い時は体格も良かったし力もあった。大変な経験をしてきたからこそ、とにかく働いたね。
それに、人のためになればといろんな役をやらせてもらった。自治会長とか、民生委員、PTA会長もね。
自治会長をやったのは、29歳の時やった。その時は僕の親父がする予定やったけど、倒れちゃったもんで。僕は親父の後継者やから「代わりにやらしてくれ」って志願した。
——29歳の自治会長ですか!昭吾さんがおっしゃる「人に喜んでもらうこと」を、仕事でも地域活動でも、一貫して続けてこられてきたんですね。
もちろん、今は当時とは時代が違う。
今の若い人は大変やわ。いろんな問題や悩みがあって、僕らみたいな貧乏や戦争を知らん人ばっかりやけど、違った苦労がいっぱいある。
でも、真面目に努力すればぜったい大丈夫。
——昭吾さんにそう言ってもらえると、心が楽になる方がたくさんいると思います。
僕の人生教訓のひとつにこういう言葉がある。
「働けど働けど我が暮らし楽にならざる、じっと手を見る」
手をじっと見ると、他の事が視界に入ってこないからゆっくり自分のことを振り返ることができる。
いろんなことを実際にやってみてうまくいかなかったら、じっと手を見る。「たくさん働いても暮らしがまだ楽にならないけど、自分は人に迷惑をかけとらんかな。正しいことができてるかな」
手にちゃんと答えが書いてある。
そのためにもまずは、どんどんやりたいことをやったらいい。僕もどんどん好きにやってきた。
やらずにおいて文句を言ったって、何にもならん。やって、失敗して、振り返って勉強すりゃ何とでもなる。
僕たちの想像が及ばないほどの過酷な経験をしてきた昭吾さんは、それでも「今の若い子のほうが大変」と、教訓に満ちた言葉と優しい笑顔で寄り添ってくれます。
僕らには、過去のことは話を聞いて想像するしかありません。
でも、話を聞くことを通して、想像することを通して受けとった感情を原動力に、行動することはできます。
いつか自分の手をじっと見る時まで、この感情を大事に守っていきたいと思います。
【田口昭吾 さん】
屋号 :下屋
出身 :黒川地区
学校 :黒川尋常高等小学校
職歴 :農家、林業関係、お茶農家
趣味 :地歌舞伎、民謡
取材年月:2023年09月