黒川地区で中華料理のお店『玉苑(ぎょくえん)』を40年間営む加藤幹夫(みきお)さん。
偶然の中華料理との出会いや、「野球をするには人数が1人足りないから」という理由で誘われ向かった愛媛県など、紆余曲折を経た人生についてお聞きしてきました。
”中華料理”と”野球”の日々
——玉苑は、開業されてから40年になるとお聞きしました。
こいつ(玉苑)が40年で、中華料理自体は50~60年やっとるな。
——すごいですね…!中華料理を始められたきっかけは何だったんでしょう?
中学3年生の時に会社が働き手の募集で学校に来て、なんとなくで「ここにするわ」って選んだところがたまたま中華の店をやっとった(笑)それで白川を出て店のある岐阜市に行った。
–—–偶然出会ったものが、すごくご自身に合っていたんでしょうか?
いやぁ、そんなことは特に考えとらんな。行って、始めて、やっただけで。なんちゅうことなしにやっただけやで(笑)
それで岐阜市の柳ケ瀬(岐阜市にある繁華街)に何年かいて、それから四国に1年行った。
–—–四国ですか。
岐阜市におった連れが愛媛出身で、おれがそいつに長良川の堤防で野球を教えてたんやわ。
そしたらそいつが愛媛に帰って「野球やるのに1人足らんで来てくれ」って(笑)
「かなわんなぁ…」って思いながら行ったわ。それで向こうの中華料理屋で働き始めた。
広島のうどん屋が愛媛まで来てくれて、うちの店のチームと野球の試合をやったりもした(笑)けっこう面白かったよ。
——愛媛の中華と、広島のうどん屋の試合…(笑)
それで1年やって、また岐阜市に戻ってラーメン屋で働いた。
今度はそのラーメン屋の前にあるキャバレーが「1人足らんで来い」って言って、キャバレーの野球チームでもやりよった。その人らが試合で喧嘩なんかをよくするから、もうおそがいおそがい*(笑)
*おそがい:「怖い、おそろしい」という意味の方言
——「1人足りない」でいろんなところに顔を出していますね(笑)加藤さん自身は幼少期から野球をされていたんですか?
やっとらんやっとらん。卓球をやっとった。野球は遊びで少しやったことがあるぐらい。
でもお店で働くだけでは面白くないやら?昼の1時頃から夜中の2時頃まで仕事で、それだけでは面白くない(笑)野球はやってなかったけど好きやったもんで、それで入った。
野球以外にも岐阜市ではいろんな経験をしたわ。当時の岐阜には極道の事務所があって、そこに配達に行くこともあった。刀がばーっと並んどるところで、さらしを巻いた女が博打をやりよる。そんなところに入って行って、お金をもらえずにツケにされたり怒られたり、おっそがいで?(笑)そんな経験ばっかやで(笑)
お店を長く続けるということ
–——えっと、これは中華料理屋さんでのお話ですよね…?その後は白川に戻られたんですか?
何歳の時に戻って来たっけな…忘れちまった(笑)
戻って今の『七曲』(白北地区にある喫茶・レストラン)がドライブインのお店をやってたところで働かせてもらった。観光バスが停まって大勢お客さんが来るから、その人らにラーメンをだーっと出しとった。
——以前取材した際に『七曲』の森基広さん(ヤゴーの取材記事)からも加藤さんのお話を伺いました。「野球をいっしょにやったり、仕入れにも同行した」と。
そうそう、それにあそこでゴルフも覚えたな(笑)
元から自分の店を持つつもりでおったから、七曲で6年ぐらい働いてお金を貯めて、28歳やったかな?地元で店を出した。
——まだ20代だったんですね(笑)なんだかお話を聞いていると、すごく濃密な10代・20代という感じがします。『玉苑』という店名にしたのはどういった理由ですか?
うちの家の屋号の『玉井屋』から取った。
玉井屋としてはおれは4代目かな?それより昔の先祖はおっさま(お坊さん)やったと思う*。いろんな歴史がある家で、親から聞いた話もいくつかある。でも地域にはおれよりよう知ってる人がおるな。なんで調べたんか、よう知っとるわ(笑)
*加藤さんのご先祖は黒川地区にあった『正法寺(しょうぼうじ)』の和尚だったと言われています。明治3年~4年に苗木藩で行われた廃仏毀釈により、他の多くの寺院と同じく廃寺に追い込まれました
——お店を始められて40年以上、先祖から役割は変われど”地域を見守っている存在”だと思います。お店を長く続ける秘訣みたいなものはあるんでしょうか?
身体が丈夫なだけや(笑)
まあでも、黒川に長くおると面白いよ?美智子さま(現在の上皇后)が黒川に来られたこともあった*。うちの横を歩かれて、警察や見物人がずらーっと田んぼのところに並んどった。うちの親は声も出せずに、うちの中からちらっと見よったぐらいやった(笑)
*1988年、皇太子妃だった美智子さまと紀宮さま(当時)が白川町にご来町されました
それに最近じゃここには他所からいろんなジン(=人)が移住して来るしよ。黒川の”人が良い”んやろうな。いろんな場所から移ってきて、空き家がほとんど埋まってる集落もある。
——同じ場所で続けることで、いろんな出会いが生まれるんですね。
そうや、いっぱい出会える。佐賀や鳥取のジンが店に食べに来てくれることもあるし、訓練の時には自衛隊が6人ぐらいジープに乗って来てくれる。みんな大盛りを食べて行くわ(笑)
それに黒川は川で鮎掛けもできるしな。今度の鮎の網漁の解禁日(取材は2024年8月)は、店を休みにするで(笑)
店を自分でやるのは、なかなかうまくいかんわ(笑)今もうまいこといかんし、申請やら届け出やらも難しくてかなわん(笑)でも人に会えたり、やりたいようにできたり、いろんな良さもある。
——今後も長く続けて欲しいです。
えらい(「大変」という意味の方言)けど、まあみんなに「まだ若いからもうちょっとやれ」って言われてやっとるわ(笑)
黒川のこの道を40年見守ってきた加藤さん。嬉しそうに昔話をする姿が印象に残ります。
「この歳になると昔のことしか出てこんな(笑)今よりは融通が効いたし、面白かったよ」
加藤さんの思い出の数々は、歴史的な資料に残るものではないかもしれないけれど、生きた歴史と積み重なる日々の大切さを教えてくれているような気がします。
【加藤 幹夫(かとうみきお) さん】
屋号 :玉井屋
出身 :黒川地区
職歴 :飲食
趣味 :釣り
読んでくれている人に一言 :食べに来てください。
取材年月:2024年8月