2003年から『白川茶手揉み保存会(以下:手揉み保存会)』の副会長を務め、2023年には地域特産物マイスター*にも認定された大岩いつ子さん。
*特産物の栽培や加工に卓越した技術や能力を持つ人材が指導者として登録される制度。いつ子さんは美濃白川茶の『手揉み製法』を伝承し、手揉み茶技術の後継者育成に取り組む活動により、認定を受けられました(広報しらかわ2023年4月号より引用)
2024年12月には『手揉み製茶』が国の登録無形文化財に登録され、ますます活動に注目が集まります。

お茶の葉を焙炉(ほいろ)と呼ばれる加熱した台の上で、少しずつ水分を減らしながら”煎茶”に仕上げていく作業。中腰での作業は約5時間にも及びます
「すごい意欲があって…というよりは先輩方に引っ張られてここまできた(笑)みなさんのおかげやと思うね」
そう振り返るいつ子さん。全国の品評会で入賞したという手揉み茶をいただきながら、お話を伺ってきました。
『手揉み茶』だけの味
——うわ…!美味しい!お茶とは思えない味ですね、出汁みたいです!
これは品評会で一等三席に入賞したお茶で、本当に奥ゆかしい味やね。
手揉み茶は機械を使わないから、茶葉が痛まず普通のお茶とは一味二味も違った味わいになる。機械で葉が切れると、渋みも苦味も出るから*。それはそれで美味しいんやけどね(笑)
*お茶は通常、生葉の状態ではなく機械を使い加工された『荒茶』と呼ばれる状態で出荷されます

手揉み茶は針のような仕上がりに。品評会で一等一席を獲得した手揉み茶は1㎏100万円以上の値がつけられるんだとか
——実際の手揉み作業も見せてもらったことがありますが、かなりの重労働ですよね。
私はまだ身体が辛いとかはないけど、難しくてうまくできん時ばっかり(笑)
生の茶葉は年に1回しか触らんもんでなかなか感覚が分からんけど、最近になって冷凍の茶葉は「こうやってやればいいかな」っていうのがほんのちょっとだけ分かってきた気がするね。
–—–いつ子さんが手揉みを始められて30年以上ですよね…それだけ奥の深い技術なんですね。
手揉みの最初の工程で30秒から40秒茶葉を蒸すんやけど、その”蒸し”で手揉み茶の出来の8割が決まるって昔は言われた。そういう細かい作業のひとつひとつで味や形が変わるし、その年の気候によっても変わるし、面白いもんやね(笑)

地域の小学生に手揉みを教えるいつ子さん
成り行きでたどり着いた場所で「ここは一生懸命やってみよう」
–——そもそもいつ子さんがお茶に関わり始めたきっかけは何だったんでしょう?
自分で決めたというより、嫁いできたここにお茶畑があったもんで、お手伝いをするうちにちょこちょことやるようになった感じやね(笑)
蘇原地区の私が生まれたところにはこんなにちゃんとした茶畑はなかったもんで。石垣に茶の木があるのを根本から切ってきて、それを雨の日とかに葉を取って窯で煎って、自家消費みたいな感じでやってたね。大きなやかんで煮だして飲んでた記憶があるけど、商売になるとかそんなことはぜんぜん考えてなかった。

品評会に出品するための茶葉は、新茶の季節に地域の方やボランティアの方みんなで機械を使わず手で摘みます
——嫁いだのが、偶然事業としてお茶に力を入れているお家だったと。
小さい頃から1.5kmぐらい山道を歩いて学校まで通ってたし、体を使ってなにかすることが嫌ってわけじゃなかったかもしれんね(笑)
1986年に『手揉み保存会』ができて、少し後に女性も講習会に出ることになって、頼まれて近所の人といっしょに参加したのが手揉みの最初やね。
——これもまた、自ら進んでというより偶然な感じがします。
「やりたい」って言って始めたわけじゃなかった(笑)
『手揉み保存会』初代会長の新田道一さんが同じ自治会やったから、教えてもらったりしてね。
その頃に「『手揉み保存会』に入って欲しい」って言われて、私は外に働きにも行ってないし、最初の講習会にいっしょに参加した人も入ったから、そのままいっしょに入った。

手揉み製法の競技大会に出場するいつ子さん(写真右手前)ら
——当時は製茶工場が新しくできたりと、どんどんお茶も売れている時期ですよね。
そうやね。町外でイベントがけっこうあったもんで、いっしょについていったりもしたね。地域の特産を紹介するようなイベントで、新田道一さんや小池彼男さん(『手揉み保存会 前会長』)が取材を受けている時には代わりにお茶を揉んだりした。
2003年にできた昭和村(美濃加茂市にある現在の『ぎふ清流里山公園』)で、毎週末手揉みを実演したり体験指導をしたりもしたね。
——偶然関わり始めたお茶が、いつ子さんの人生にとってひとつの軸になっている…誘われて入った『手揉み保存会』ですが、意識が変わってきたタイミングとかはあるんですか?
頑張ろうと思ったきっかけは試験やったと思う。2001年に教師*の試験に受かって、そうすると少しだけ自信がついてやる気になった。2016年には品評会で一等二席になって、そうやって時々ご褒美があったりしたおかげで続けられたかな(笑)
*『手揉み製茶』には「茶匠」、「師範」、「教師」、「教師補」の資格があり、その取得に際しては審査会(試験)が実施される。いつ子さんは平成13年、県内で初の女性手揉み教師に認定されました

2008年には師範の資格も取得されました
——目に見える形で成果が出たことが、やる気に繋がったんですね。
でもひとりじゃなかなかできんかったね。いっしょに覚える仲間がいて、教えに来てくれる先生から指導してもらって少しづつ覚えられた。
そうやって10回に1回ぐらいうまくできたり、ご褒美みたいに試験に合格したり品評会で入賞したりすると「またちょっとやってみよう」って続けられる。
——そうやって30年以上の時間が積み重なっていった、と。
ずっと成り行きみたいなところはあるもんで、それで「ここは一生懸命やってみようか」ってちょっと頑張ってみたり、それぐらいのことやね(笑)
『手揉み製茶』は登録無形文化財に指定してもらったけど、白川町に手揉み施設が無かった頃から自分たちで準備して一生懸命にやってくれた新田さんや小池さんら、先人の方のおかげやと思う。亡くなる2、3ヶ月前までお茶揉みに来てくれた人もいて、それでこういう一等に入賞するお茶もできるようになった。私らは良い思いをさせてもらっとるだけやね。

「みなさんのおかげで、私はまともな人間になれたと思う(笑)」と振り返ります
お茶と茶畑の景観を残して「心安らぐ場所に」なるように
——今の若い人たちにとって、いつ子さん自身もそういった存在になっていると思います。
なんとなく引力みたいに引っ張られて「はいはいはい」、こっちに引っ張られたら「はいはいはい」って感じでここまできただけやけどね(笑)信念がないもんでいかんのやけど…
でもそうやってここに住まわせてもらっとるもんでね、できればこの景観はずっと残していきたい。良い景色の場所っていうのは全国津々浦々あるけど、ここもそう引けは取らんなぁと思うね(笑)

いつ子さんが暮らす白川北地区の葛牧(くずまき)という地域の様子
——それは、すごく思います。
これからどんどん人口も減って、本気で残そうと動いてる地域しか残らんかもしれんけど…後世の人に「この場所はこうやったよ」って残すことができて、みんな生きとったってことが分かるといいかなと思う。孫の、孫の、その孫ぐらいまでね(笑)
——景観とその記憶を残すこと、ですか。
こういう場所を残すことで、都会から来た人がちょっとした休暇みたいな感じで休んだりもできると思うんよね。ふらっと来てお茶を飲んだり、お茶摘みしたり、そういう体験ができれば良いなぁって。
都会で一生懸命働いとっても、精神的に「休みたい」って思う人もいるっていうし…何もないところやけど、だからこそぼーっとできて、元気になれると思う。自分らが子どもの頃そうやったもんで。

いつ子さんのご自宅の窓から見える茶畑
——茶畑の綺麗な景観も残る、白川町だからこその良さですよね。
うちらが子どもの頃は幸せやったかもしれんね。何も勉強しいひんけど飛んで歩いてまわって(笑)夕方になって「あれ!?もうこんな時間!」って家に帰ったら親に「どこ行ってた!!」って叱られて、ご飯もらって風呂入って寝るだけやったもんで(笑)
——聞いてるだけで幸せそうです(笑)
小池彼男さんが「ペットボトルのお茶は喉を潤すけど、急須で淹れたお茶は心を潤す」って言われるけど、急須で淹れたお茶は心が安らぐっていうか。昔から10時や15時にお茶を飲んどったのは、そういう癒しの効果もあったんかもしれんなぁって思う。
私も介護やいろんなことで最近は忙しくて先のことはなかなか想像がつかんけど…ほんとにこんな(親指と人差し指で小さくすき間をつくって)、こんなちょっとのことでも良いんやけど…この景色を残して、いろんな人の交流が生まれる場所にするためのことができたら良いなぁって、思ってます(笑)
「信念がないからダメ」とご自身のこれまでを笑ったいつ子さん。
でも、自分にできることを時間をかけて続けたいつ子さんのこれまでは、いつ子さんにしかできない生き方で、どこに繋がるのか分からない僕たちの日々の生活にそっと光を当ててくれるお話だと感じました。
【大岩 いつ子さん】
屋号 :中屋
出身 :白川北地区(蘇原地区)
学校 :三川小学校(当時)、白川中学校、加茂高等学校
趣味 :コーラス
読んでくれている人に一言 :座右の銘は「人間万事塞翁が馬」です。川の流れのように生きてきましたが、本当にみなさんのおかげでやってこれています。
取材年月:2025年2月