『白川茶手揉み保存会(以下:手揉み保存会)』の前会長で、手揉み資格の最高位「茶匠(さしょう)」を有する小池彼男(のぶお)さん。
中学校卒業後から家業である農家として活動し、白川茶やその苗木の生産、手揉み文化の普及など、多くの役割を担ってきました。
「昔から『ちょっと”いっぷく”しようか』っていうのは、みんなでお茶を飲むことやってん。そうやってみんなで話したことが頭に残ってて、後になってふっとそれを思い出すことがある。そういうことが、大切やと思う」
小学校の頃から家業の手伝いを始め、80年以上お茶に関わり続けているという彼男さん。その歴史の一端を、お聞きしてきました。
農家への決意を固めた”女性との出会い”
——彼男さんは中学校卒業と同時に農家になられたんですよね。
まあそら決まっとるわけではないけど、農家に生まれた長男はその家を継いでいくっちゅう…そういうのがあった。
小学校のうちから「先生、今日はうちの百姓の手伝いをせなならんで暇ください」って言うと、はいどうぞって言わっせる。学校でも、戦後は運動場にぜんぶさつまいもをつくっちまってな。そんな時代やもんで勉強はしとらへんよ(笑)

「そうやって許可をもらっても、家まで来ずに道で遊んだりもしとった(笑)」
——時代や環境の成り行き、というか。
そう、そういうなかで「おれは百姓をやらないかん!」っちゅう出来事があった。
——決意する出来事が。
金山(現在の下呂市金山町)の町のほうから、30代ぐらいの女性が歩いて訪ねてきたんやわ。「子どもに1回だけでも白いご飯を食べさせてやりたいで、米が欲しい」と。
あの頃は配給で決まった分しかもらえんもんやで、米に麦とか豆を混ぜるとかいろいろして食べさせておったんやな。町のほうなら特にそうやったと思う。
——歩いて金山から…かなりの距離がありますよね。当時の状況や母親としての強い意志が伝わってきます。
その人は金もないもんで「私の着た服やけど、これを代わりに取ってくれ」と言って、物々交換やな。うちは田んぼもつくっとったもんで、親父が米を分けたわけよ。
それでその人が帰る時に、食べ物にもずいぶん困っとると思ったからカボチャの『うらなり』って、ツルの先っぽにできたような、今やと家畜にやるようなやつを親父があげたら、涙をこぼして「ほんとにもらっていってええか」って喜んだ。

「人から教えてもらうんじゃなく自分で考える農業は、難しいけど面白い」
——それが彼男さんの今に繋がる原体験…
戦後で食べるもんのない時代やでな。あの、子どもに対して「なんとかして子どもにだけは」と思う気持ち、親父はその気持ちが本当に分かったわけやな。
子どものうちにそれを見とって、やっぱり百姓はええやつやと思った。おれは百姓をやらないかん。ほんで百姓をやるからには、少しでもみんなより良いものを、量を、取れるようにせないかんと。
『やぶきた』と在来種
–——白川町では昭和33年(1958年)以降に各地で製茶工場が整備され始めていますが、彼男さんはそれよりも早くお茶の生産に関わり始めたんですよね?
同じ百姓でもその頃はみんな、田んぼはもちろん、畑で豆や麦をつくっとったわけやな。
これからも農業を続けていくために「なにか考えてやらないかんなぁ」と思ってる時期に、役場の人が静岡から”お茶の苗木をつくるための指導”*の先生を呼んだわけや。そこに参加したのが始まり。
*それまで白川町で生えていたお茶は、お茶の”実”から成るものでしたが、挿し木(さしき)をして増やす方法が導入されました
——みんなと同じものをつくるのではなく、農家を続けていくためにも新しいことにチャレンジした、と。
今はお茶の代名詞になっとる『やぶきた*』っちゅう品種が、静岡から入って来たぐらいの年やったね。
それを連れといっしょに買って来たのが始まりで、2人で苗木をうまく増やす方法を考案して、当時の白川のほとんどの苗がおれんた(おれたち)でつくったぐらい(笑)
畑がなくなると今度は山を開墾して、白川中にお茶が増えてったな。
*全国の茶園面積の約7割で『やぶきた』が栽培されています(令和元年産)

白川町内の茶園。昭和36年から茶園造成の事業が始まりました
——目のつけどころがバッチリだったんですね…!
今みたいに車も、舗装した道もあらへんで。苗木を背負って歩いたり土を掘ったり…
やっぱり最初ってやつはよ、だいぶその気にならんとできんっちゅうことが分かるな。
——そういった大規模な茶園ができる以前から白川町はお茶の産地だったんですよね?
当時は茶園じゃなくて、畑の畔(「クロ」:田畑の境。あぜ)とか石垣に在来種*のお茶が生えとった。
石垣から生えとるやつは『ねずみ茶』って呼ばれるわな。ねずみがお茶の実をくわえて、冬のために石垣の穴に貯めとるわけや。
*特定の地域に昔から生えている、もしくは栽培されている品種のこと。白川町では『やぶきた』などの品種が導入される以前、各地に昔からのお茶が生えていました

昔からの土地には、今もところどころにお茶が生えています(お茶は写真中央)
——あ、うちの家にも生えてます…!!そういう理由だったんだ。
だから、在来種のお茶は1株1株違う。受粉する時に別の苗木から受粉するから、実でできたやつは挿し木とは違って品種が変わっちゃうんや。
——彼男さんは、白川町の在来種である『たにまみどり』という品種を育てられていますよね。
ぜんぶ違う在来種から「これならええ」っちゅうやつを残して、ほんでそれを伸ばしておいてさし木をしたのが『たにまみどり』。
『やぶきた』が静岡から入ってきたけど、昔からここにある品種のなかにもきっと良い品種があるはずやで、そいつを大事にせなあかんと思ったもんやで。それぞれの土地に合った品種が、あっていいはずやわな。
もっとよく調べてみりゃ、この白川にはまだ良い品種があると思うよ。

彼男さんがつくった『たにまみどり』の茶畑。現在は地域おこし協力隊の安井さん(活動の様子はこちらから)が、茶畑の管理を手伝っています
お茶人生80年のはじまり
——彼男さんが子どもの時のお茶との関わりについてもお聞きしたいです。
小学1年生か2年生の子どものうちから、おばあさんにお茶摘みに連れて行かれてな。もちろん手摘みで、茶葉を摘んで入れる『ヒゴ』っちゅう”かご”を渡された。
そうやってお茶のことを習って、それからしてみると80年以上お茶をやっとる。

現在も新茶の季節、手揉み用のお茶は手摘みされます。腰につけている摘んだお茶を入れる”かご”が『ヒゴ』
——80年…!摘んだお茶は、そこから手で揉むんですよね?
近くに小屋があって「ちゃびや、ちゃびや」って言った。
——ちゃびや…?
茶部屋のことやわな(笑)
そこに焙炉(「ホイロ」:お茶を手揉みする際の台で、下から加熱する)が2台置いてあって、親父が1人で2台に火を入れて揉んだんやよ。
今は1台を2人で揉まなえらい(「えらい」:しんどい、大変という意味の方言)なんて言うけど、親父はこっちを揉んで、そのあいだにもう片方を乾かせてやっとった。
——今の手揉み作業では、1台を2人で手揉みしても5~6時間以上はかかりますよね…
そら今みたいに良いお茶にはならんよ(笑)それでも蒸して、揉んで乾かせるとお茶の味が出てくるんもんや。家で飲んだり「あそこに行けばお茶がある」って話が回って買いに来る人がおったわけや。
それで小学校の上級生ぐらいになった時には「こりゃノブ、ちと朝手伝ってけな」って、蒸しをやらされたんやな。

地域の小学生に手揉みを教える彼男さん
——彼男さんは『手揉み保存会』の会長も歴任されましたが、小学生の頃からもう手揉みをされていたんですね。
そう、でも子どもで体が小さくて火に近いし、熱うてかなわんのや。だから火をなるべく焚かんように、小さい火にしてやりよったら
「きょうらクソ!!!なにやっとる!お茶っちゅうやつは蒸しがいちばん大事で、強い蒸気でべえっ!と蒸さんことには良いお茶ができんぞ!」
って言って叱られてよ(笑)おれは蒸すことは親父に習ったんや。その時に親父に習ったことはそうないが…蒸すことだけはしっかり習った(笑)
——きょうらクソ…
手伝いをしようるうちにお茶が好きになってったかしらんが、やりとうないって言いながらやるようになってったわな(笑)

手揉みをする彼男さん。現在も後進の育成や普及に尽力されています
「ちょっと、いっぷく」
——お茶の生産も、手揉みも、彼男さんはずっと関わり続けてきました。そのなかで感じることや、大事にされていることをお聞きしたいです。
お茶というものは栄養分があって健康のためにもなるし…それ以外にも良いところがたくさんあるな。
お茶を飲みながらやと話も弾むし、話をすると口が乾くんでお茶を飲みたいわけや(笑)そんだけの簡単なことやで。
今はお茶を急須で出して飲む若い人は少ないかもしれんけど…おれはそういうことやと思うのよ。
——お茶があることでコミュニケーションが生まれる、と。
昔は近所の衆が、畑仕事を手伝いに行ったり来たりしたわけ。それで休憩の時に「おい、いっぷく~!」って言うとみんな寄ってきて、お茶を飲んだ。
そこでみんなの話を聞いてると、ひょっとするとここへ(頭に)残っとることがあって、それを後からふっと思い出すことがある。そういうことが、大切やと思う。

『たにまみどり』の茶畑の作業後、集まったみんなで撮った写真。「いっぷくっていうのは、お茶を飲んで、こうやって話ができること」
——彼男さんがお茶を通して得たのは、人との繋がりだったんですね。
値段が高くて良いお茶じゃなくても、袋に入れたもの(ティーバッグ)でもいいわけや。
おれは勉強もしとらんし頭も悪いけども、そうやって人と付き合うことで勉強させてもらった。そのうちに、いろんな行事の役が回ってきて「おう、ノブオ衆ノブオ衆」ってみんなが育ててくれたわけやな。
昔は白川町に青年団があって、150~160人おった。その団長もやらせてもらった。みんなとの付き合いはそうやってずーっとやらせてもらってるんやわ。
白川茶はきっと当時の人にとって、生きるために、そして繋がりを強くするために、とても大事なものでした。
だんだんとお茶を飲む人が減り、白川茶が持つ意義は変わってきたかもしれません。でも今も特産品として残る白川茶に触れる時、彼男さんがしてくれたお話を思い出せる自分でいたいと思いました。
【小池 彼男(こいけのぶお)さん】
屋号 :鍛冶屋
出身 :白川北地区
学校 :大山中学校
職歴 :農家
趣味 :スポーツ全般(現在はゴルフ)
読んでくれている人に一言 :話を聞きにきてくれるのはありがたい。お茶のおかげで、そうやって大勢の人と出会ったり話ができたりして、良かったと思う。
取材年月:2025年8月
※年齢、年数等の数字は取材当時のものです。