猟友会の佐見支部で勢子*として活躍する、85歳の笹俣正数(ささまたまさかず)さん。
*集団で行う狩猟では、猟犬を使い”尾根”から”すそ”へと獲物を追い上げる役目の勢子(せこ)、各持ち場で獲物を待つ待子(まちこ)の役割があります
「町内ぜんぶとはいかんけど、だいたいの山と持ち主の境は分かる。幼い時分から山仕事をしとるもんで、勘がつくんやな」
狩猟だけでなく、地歌舞伎や錦鯉の競り市での仕切りを数十年続ける正数さん。
仕事と生活が繋がったその取り組みについてお聞きしました。
始まりは12月14日
——正数さんは、いつから狩猟を始めたんですか?
27歳の時やな。うちのおじいが鳥の猟をやってたのもあって、初めはヤマドリやキジを撃っとった。
——そうだったんですか。今は猪や鹿を撃っていますよね。
郡上のほうにヤマドリがたくさんおるって話があって、連れといっしょに行った日があったんやわ。その時に雪が降ってきちまって、鳥は撃てんし帰ろうと思ったら別の猟師さんたちがおれらを呼ばらっせる。行ったら「今から猪が来るで、鉄砲持って待っててくれ」って言われたわ。
「ええけど、その代わりおれは猪が来ても撃てんで」って言ったら、猟師さんは「そんなもん時の運やでしゃあない」って。

「『佐見から来た』ってその猟師さんらに言うと『おれは佐見に親戚がおる』なんて人がおってよ。それで『いっしょにやらっせぇ』って仲間になったわけ」
–—–なんだかドキドキする展開…
そいでおっきいやつが来てな!それをおれがたまたま撃ったんや。バーンバンバン!と3発入れたら、だぁーっと山を上がって行ってまうやないかよ。「こりゃしまった…!」と思ったらまた下りてきて、バンバン!と2発引いたわ。
あれが始まりよ。12月14日やった。いちばん猪の肥えとる、酒も美味い時期やでな。
こりゃすごいと思ったで。それから鳥を辞めてまって、大物猟を始めた。
——おおおお!!!まさに運命的な出会いという感じですね。
獲物を外して、ベテラン猟師に怒られたことは何回もある(笑)
雪が降ってると動物の足跡がついとるやら。それを見て「こんなとこ来とるのにどうして撃てなんだ!」って叱られたよ。雪がないときゃ、外しても「あっちのほう行った」って嘘こけたでな(笑)

猟に出る前に集まる、猟友会佐見支部のみなさん。「昔は猟でもGPSも車もなかった。ぜんぶ家から歩いてよ、ぺーっ!と笛で合図してやり取りしてた」
——いろんな経験を経ての今なんですね(笑)勢子はいつからされているんですか?
もう長いことやっとるな。
勢子は、とにかく山と獣がだいたいどこを通るかっていうことを覚えないかん。間伐したりで山は昔からちっと変わっとるけど、必ず通る場所は通る習性がある。動物の本能やな。
おれは昔から山仕事をやっとるのもあって、山のことはだいたい勘で分かる。
好きで続く”60年以上”の活動
–——「勘」、ですか。
昔から「山勘」って言うでな。
その勘は、幼い時分から山仕事をしとるもんで、そういうところからきとるな。
うちの親父が木を切って市場に出す仕事をしとったもんで、中学を出てからは牛に木を引かせて山から出す仕事を10年ぐらいしとった。そういう仕事を「どた引き」って当時は言ったな。大きい牛を飼って、3人グループで木を引かせる。おれは体が大きいほうではなかったし、今から思うとようやったなと思うよ。

正数さんのご自宅から見える景色。「悪い子どもで、山仕事しかやれなんだわ(笑)」と当時を振り返ります
——まだ16歳ですもんね…大きな木を運ぶというのはかなり危険を伴う作業だと思います。
ここらへんに今も残ってる人は「どた引き」の経験がある人ばっかりや。
昔はチェーンソーもあらへんで、1日に3本か4本倒すだけやった。ここらで木を切ることの名人やった人が切った木を、おれが玉切り*したのは印象に残ってる。上手に切るけども、そのペースに合わせて玉切りしていくのはえらかったわ。(「えらい」は「大変」という意味の方言)
杉をばーん!と倒すと、花粉がばーっと舞ってまっ黄色になってな(笑)まったく向こうが見えんかった。
*伐採した木を、枝を切り落とし一定の長さに切断する作業のこと
——正数さんにとって、山は何がそこまで魅力的なんでしょう?
そら山でご飯食べるとまったく美味しいに!(笑)
猟や山仕事の他にも、錦鯉の競りの仕切りなんかも60年やっとるけど…やっぱり好きってことやな。
——60年…!
元々はうちの親父がやってたのを継いだんやわ。
競りでは生産者は少しでも高く売ってもらいたいし、お客さんは少しでも安く買いたい。「この鯉はどんだけの価値があるか」を目利きで確かめながら、お客さんと駆け引きするのは、難しいな。

競りを仕切る正数さん。「昔は三重から貸し切りバスで来たり、どえらいお客さんやったが」
いちばんの思い出は「ゼロからの歌舞伎立ち上げ」
——正数さんの佐見での長い経験のなかで、いちばん印象に残ってる出来事をお聞きしたいです。
やっぱり平成3年(1991年)の時にやった歌舞伎がいちばんの思い出やな。
——猟や山でのことだと思いましたが…地歌舞伎なんですね!
昔は佐見にも歌舞伎小屋があって、おれが子どもの時分には消防団の人で歌舞伎をやってよ。*よそから歌舞伎や芝居の巡業に来たり、映画もやったな。ええ小屋やったけど、伊勢湾台風(1959年の死者・行方不明者5000人以上を出した台風)で潰れてまった。
*佐見地区には戦後まで鍬山座・小松座が残っていたたものの、鍬山座は伊勢湾台風で損傷し、のち廃絶となり、小松座は1954年の公演を最後に取り壊されました(『白川町誌 現代編p821参照』)

コロナ禍を経て2024年12月に5年ぶりに開催された佐見歌舞伎。本公演から、旧佐見小学校の体育館を改築し、常設舞台として使用しています
——他の地区でも、昔あった歌舞伎小屋の多くが存続できずに無くなっていますね。でも佐見地区では1991年に地歌舞伎公演が復活した。
おれともう2人の、3人が発起人になって始めた。「昔は小屋でやっとったんやで、やれんことはない。もう1度やろまいか」って、もし赤字になったら3人で30万円ずつは出そうって言ってな。それで10人ぐらい集まってくれて、グループをつくってよ。
まったくのゼロからやで、材料を集めてきたり寄付してもらったり、なにもかも手づくりやったでな。
市川福升っていう有名な先生に振付をお願いしてな、芝居の稽古して、ほんでそれが終わると道具づくりよ。毎晩1時頃までかかったわ。
——すごいですね…それが佐見地区全体を巻き込んで、今でも続く地域の伝統になっています。
今より若かったけど、それでもようやったと思うわ(笑)舞台もゼロからつくるから、自治会にも手伝ってもらわんとできんもんで。「自分らの好きなことをやるのに、協力する必要はない」って批判も自治会の人からあったわ。いろいろ難しかったけど、とうとうみんな理解してくれて、2日公演して1000人近く来場されて大盛況やった。

演者として舞台に上がる正数さん(写真中央)。「福升先生に気に入ってもらって、ええ役ばっかりやらせてもらった(笑)」
佐見に「ぜんぶある」
——正数さんのお話を聞いていると、佐見地区という地域のなかに仕事や生活のたくさんのものが含まれているように思います。
そうそう。仕事も、趣味もぜんぶあるな。
——今後地域が「こうなってほしい」などはありますか?
とにかく山に道を入れてもらいたいわ。道さえありゃ、切ってすぐ車に積んで木を出荷することができる。そうすりゃ、週末に山に行って手入れでもしようって気になる人がいるかもしれん。
今は木材の単価が下がって金にならへんもんで、みんな山の管理もできんくなっとる。今の若い衆は、自分の山がどこにあるかなんて知らへんし、ましてや山の境なんてぜんぜん知らんでな。弱ったもんや。
昔から先祖が管理してきた山をみんなで守っていかなよ。
生まれた場所の自然や文化。ご自身もその一部になっているような正数さんの生き方と、実際の”経験”を語るその言葉に、安心感を覚える時間でした。
【笹俣 正数さん】
屋号 :下林
出身 :佐見地区
学校 :佐見中学校
趣味 :猟、歌舞伎
読んでくれている人に一言 :猟をする人が少なくなったので、1人でも猟に興味を持ってもらって、猟友会に入ってくれたらありがたい。
取材年月:2025年3月
※年齢、年数等の数字は取材当時のものです。