蘇原地区の三川出身の後藤匠海(たくみ)さん。現在名古屋学芸大学デザイン学科に通いながら『尾古志工房(おこしこうぼう)』という屋号で白川町に関わるイラストやデザインの制作を行っています。
「発信と企画を頑張って、来年の地元の夏祭りには10万人動員します!音楽フェスみたいに!(笑)」
白川町への熱い想いと、独自のユーモラスな視点でどんな状況も楽しみながら乗り越えて行く匠海さんに、お話を伺いました。
絵を描く理由は「町が死んでいる」から?
——2024年2月頃から『尾古志工房』として白川町のイラストを描いて、SNSで発信されていますよね。
そうですね。元から「自分のアトリエ的な場所をSNSにつくろう」っていう気持ちがあったんですけど、そこで何を描くかは決まっていませんでした。
その時に、幼馴染がInstagramにアップした白川町の写真を見たんです。
——白川の写真、ですか。
近所には幼馴染が4人ほどいて、その仲間でいっつも遊んでた場所を撮ったものなんですけど、それがすごく暗い写真で(笑)
その子は雰囲気を出すために意図して暗く撮っているんですが、写真を見た時に「町が死んでるな…」って思ったんです(笑)
僕らが走り回っていた幼少期に感じたキラキラ感がないというか。
–—–それはたぶん人通りやお店の数とか、昔から住んでいる人が感覚的に感じるところですよね。
白川町には白川橋とか、白川茶、東濃ヒノキみたいに有名なものもあります。
でもそういうことじゃなくて、もっと陽の目を見ないけど僕らの身近にあるようなものをピックアップして、活気が失われているように見えるその場所の”可能性”を探っていけないかなぁって思ったんです。
–—–それで白川町の絵を描き始めたんですね。
それまで似顔絵とかは描いていたんですが、建物を描いたのは初めてでした。
でも発信を始めると、白川町のお店から「うちの店を描いて欲しい」って依頼が入るようになったんです。最初は横の繋がりというか…同級生のお父さんとかでした(笑)
今は名古屋で下宿しているんですけど、帰省した時に「あの絵って、蘇原のあそこだよね」って声をかけてくれる人もいます。住んでいる場所は白川から離れていても、いつもSNSの投稿を楽しみにして応援してくれる人がいるのがありがたいです。
田舎だからこそ「白川ってネタになる」
——知っている場所を作品に残してもらえると嬉しいし、より愛着も湧きますよね!そもそも若くしてそれだけ地元愛が強いのは、どうしてなんでしょう?
なんでなんですかね…?(笑)
自覚したのは高校生の時です。町外の人ばかりの環境に初めて入って「白川ってネタになる」と思ったというか(笑)
——ネタ!?
田舎!何もない!とか(笑)
それで周りの人も面白がってくれる。でも自虐的な感じでネタにするからには責任があるし、白川のことをちゃんと知っておかないといけないじゃないですか!歴史とか、地元とは別の地区のこととか、住んでいても知らないことってたくさんあるので。
そうやって調べていろいろ知っていくうちに「人口もめっちゃ減ってるし、何とかしないとやばいんじゃないか?」っていう想いが強くなっていきました。幼馴染でも、僕と同じように地元愛が強いやつが多いですね。
——環境の変化をきっかけに地元の課題や仲間に気付けたことが、ご自身のアイデンティティみたいなものになったんですね。高校生だと周囲の目が気になって、周りとの違いを嫌がる人もいると思います。
やっぱり、白川が好きだったからだと思います。
流れる時間がゆっくりで、のびのびできた。不便とも思ったことはないし、性格に合っていたのかな?
小学校1年生の時に、綾小路きみまろ(※日本の漫談家)のCDを親が買って車で流していたんですよ。それにハマって、実家の会社の忘年会で「道路工事たくまろ」っていう漫談を披露しました。みんな盛り上がってくれて、おひねりなんかも飛んできましたね(笑)そこから人の前に立つことが好きになったし、周りの大人に温かくのびのびと育ててもらいました(笑)
お昼休みは『コーデナイトニッポン』
–——小学1年生がそんな漫談をしてくれたら絶対盛り上がります(笑)幼少期から白川で培ったものを、町外の高校でも存分に活かしていたんですね!
入学当初はコロナ禍で、規制も厳しくてすごく息苦しかったんです。お昼休みは黙食で、静かに前を向いて食べる。誰も喋っていないか先生方が見回りに来たりもしました。中学まであれだけのびのびさせてもらっていたのに…
——そうか、入学の年がちょうどコロナが流行り始めたタイミング…きっと先生たちも手探りの対応で難しいですよね。
でも同じ高校に通っていた白川の幼馴染といっしょに2年生から生徒会に入って、3年生の時はお昼休みにラジオ放送を始めたんです。先生には黙って、放送委員長の友だちから勝手に鍵を借りて!
『コーデナイトニッポン』っていう番組名なんですけど、静かで雰囲気が暗いお昼休みをラジオで明るくして「お昼休みはこうでないと!」と伝えるコンセプトなんです。
そこから先生方も「まあ何かあったらあいつらに委ねよう」みたいな空気感になってくれました(笑)
——扱いが助っ人外国人みたい…(笑)自分で自分がのびのびできる環境をつくっていったというか。
ラジオでも白川のネタを入れたりしていましたね(笑)
3年生の時には文化祭の運営とか、最後は3年生を送る会も任せてもらえたんです。僕らが送られる側なのに(笑)
「ウケたい!」から始まる”まちおこし”
——行動で信頼を勝ち取っていったんだ。充実した高校生活を送って、その後は現在のデザイン学科に進学されています。
進路をぜんぜん決められなくて、A4のコピー用紙に「今自分にできること」を書いていったんです。
最初の1行目に出身地の「白川町」って書いて、イラスト、ギター、けん玉、その時だけやっていたジャグリングとか、些細なことでもとにかくたくさん(笑)自分を活かせるもののなかで、何を伸ばしてどうしたいか考えました。
そうしたら何を選んでも、1行目に書いた「白川町」に繋がるなって気づきました。
——白川町に繋がる、ですか。
”ギターが上手くなってレコード大賞を取れたら白川をテーマにした歌をつくりたい”、とか。
”ジャグリングで世界チャンピオンになったら白川で披露して、町外からたくさんの人に来てもらおう”、とか。
何をしても最終的に、自分のやったことで白川をどうにかしたいっていう気持ちになると思いました。それだったら白川に直接関われることを学びたいと思ったんです。
——それが、匠海くんにとって”デザイン”だった?
デザインってイラストみたいなモノづくりだけじゃなくて、コトをつくったり、仕組みをつくることでもあるんです。
たとえば川に橋を架ける時に、橋をどういう形にするかもそうだけど、まずその川をどう渡るかを考えるのもデザインなんですね。進路を考えている時にそういう話を聞いて「自分の好きをそのまま正解にできる!」みたいな気持ちになりました。
——まさに高校時代の匠海くんにピッタリな選択ですね!お話を聞いていると『尾古志工房』での活動も、これまでの経験がぜんぶ繋がっている気がします。
今の活動もそうだけど、昔から変わらず何でも「ウケたい!」っていう気持ちが根底にありますね(笑)
依頼をくれた人や、自分が思い浮かべた人が面白いと思ってくれるものをつくりたいです。それで白川のことを面白がってくれる人が増えたらいいですね!
今は、だんだんイラスト数も増えてきたのでこれを使って白川のマップをつくりたいと思っています。まだまだ『尾古志工房』は序章ですから。プロローグですから!
今後、期待しといてください!!!
「今いちばん嬉しい瞬間は、帰省した時に兄貴から『あの投稿のあそこの部分、めっちゃ笑ったわ!』って言われることですね(笑)」
小学1年生の時から上がり続けるステージの上。匠海くんの振る舞いを見ていると、何か困難が起こっても笑って乗り越えられる術があるように感じます。
これからの尾古志工房と、匠海くんの地元である蘇原地区の『赤河・三川夏祭り』が楽しみです。
【後藤 匠海(ごとうたくみ) さん】
屋号 :尾古志(おこし)
出身 :蘇原地区
学校 :東濃実業高校、名古屋学芸大学(在学中)
趣味 :キムチ作り
読んでくれている人に一言 :やっぱサヨリ飯やて
取材年月:2024年8月