黒川地区にある衣料品店『はしもとや』
4代目店主である古田照雄(ふるたてるお)さんは、他にも黒川地区の佐久良太(さくらだ)神社の神主(権禰宜*)としての活動や、白川町の地域と里山を後世に残していこうと活動する団体『里山守研究所』の代表など、様々な活動をされています。
*ごんねぎ:神職の職階の一つ
「情熱を傾けられる何かを見つけなきゃいけないって、足掻いてた」
ご自身の活動の原点をそう振り返る照雄さんに、お話を伺ってきました。
環境に流されながら、家業を継ぎ神主へ
——照雄さんはたくさんの活動をされていますが、どういった経緯があったんでしょう?
大学を出てからは多治見の不動産屋で働いていましたが、26歳ぐらいの時に白川に戻って来ました。
自分が長男だったから『はしもとや』のことも気になってたし「帰ったほうがいいのかもしれない」っていう気持ちはずっとあって。
——お店を継ぐために戻ってこられたんですね。
うちもそうやけど、世代的にも家業がある家の長男は「お前は長男やからいつか戻って来いよ!」みたいなことを言われて過ごした人が多いんじゃないかな。
この地域がものすごく好きとか、どうしても『はしもとや』の仕事をしたいっていう前のめりな気持ちというよりは、環境や周りに流されながらっていう感じでした。
神主の活動もきっかけは同じでしたね。
–—–流されて神主の活動、ですか!?
20代の終わりぐらいに、若い人が減ってるのもあって「佐久良太神社の神主をやってみないか?」って声をかけてもらったんです。
その時も、前のめりというわけじゃなかった。でも「興味はあるし、せっかく声をかけてもらったから…」という感じで神職をやるための講習を受けに行きました。今は佐久良太神社には自分を含めて4人が勤めてます。
神主として知る、一人一人の物語と地域の繋がり
——-神主は講習を受けてなるものなんですね…!神主としての活動はどういったことをされるんですか?
佐久良太神社のお勤めはもちろんですが、黒川地区は仏教ではなく神式で故人をお祀りするお家が多いので、神葬祭(しんそうさい:神式の葬儀のこと)が多いですね。その他、地鎮祭(じちんさい:建物を建てる際に、工事の安全祈願などを行うための儀式)なんかもあります。
佐久良太神社は常駐の神職がいる神社ではないですが、大祭・中祭・小祭と併せて16の神事が執り行われます。その他、七五三や初宮参り、厄年や還暦のお祓いなどもさせていただいています。
神社のお祭りは、外からみていると初詣とか例祭くらいしかわからないですよね。
——「前のめりじゃない」というなかで、本業とは別にそれだけのことをするのはとても忙しいと思うんですが…実際にやってみてどうですか?
神葬祭では、ご家族などから亡くなった方のお話を伺って、故人を称える誄詞(しのびごと)を読むんです。地域で暮らしてこられた方のお話を聞くと、当たり前ですが一人一人それぞれに物語があって、それがまた他の方とどこかで繋がっているのが興味深いと思いますね。「この人とこの人は同級生で育ってきて、昔は仲が良くて…」って話があって、それを私の父に聞くと「その人たちは昔おそがかった(怖かった)ぞー!」って父との繋がりまで出てくる。
佐久良太神社で氏子総代*として手伝って頂いている方々には、私の祖父のお話を伺うこともあります。
*うじこそうだい:神社の宮司と協力し、祭祀や保持活動に努める役割を持つ人のこと
——そうやって繋がりを実感できると、より自分も『地域の一員』という感覚が出てきそうですよね。
『はしもとや』って言えば黒川の人はみんな分かってくれます。祖父や父が築いてくれたものがあって、そのことを黒川の人たちから聞けるのは嬉しいですね。「佐久良太神社の奥の院まで行く道は、祖父がいろいろ関わってつくられた」っていうことを教えてもらったりもしました。
普通に暮らしていると生活に追われてしまって、家族のことでもしっかり聞くことができず、何をやっていたかを知らないまま亡くなって聞けなくなることも多いですよね。
年を取ってだんだん、都会よりも自分の地元に住んでるほうが良いかもしれないなって思うようになりました。子育てとか、生活費のことを考えてもね(笑)
「100歩譲ってこっちのほうが楽しいな」という方向へ
——実際にやってみることで、照雄さん自身の気づきもたくさんあったんですね。
白川に戻った20代後半から30代にかけては、そうやっていろんなことをやってみたりいろんな場所に顔を出していました。
——それは「まずは何でもやってみよう」という気持ちからですか?
何か情熱を傾けられる、前のめりになれるものを見つけなきゃいけないと思ってたんです。
白川に戻ってきたら、まちおこしとか地域活動をすごく頑張ってる人が周りにたくさんいて、そういう人を見て「自分もなんかやりたい!」っていろんなことをしました。『里山守研究所』の活動なんかも、その時に周りの先輩方がやっていたものです。
——何かを見つけようと実際に行動をしたからこそ、今にも繋がっているものがたくさんあるんだと思います。
とにかく何か見つけようと足掻いていました。ホームページの制作をしようと勉強したり、SNSで『美濃白川』のアカウントをつくって発信したり(笑)他にも「やってみたい」っていうアイデアだけあって、実現できなかったものもあります。
考えてみると今も続けているものは、たくさん手を出した中から残ったものかもしれないですね。
——ちなみにそうやって足掻くなかで見つけた、今の照雄さんがいちばん情熱を傾けているものってありますか?
うーん…今は子育て?かな(笑)
当時の足掻きからは、見つけられなかった。
もちろん当時から続いている活動は楽しいし、今も周りから楽しい企画に誘われることもあります。それはありがたいし楽しいけど、楽しい時間は一瞬で準備とかいろんな調整は大変だし「めんどくさいなぁ」って思う時間が長い(笑)
——たしかに、ただでさえ地域ではやるべきことが多いですし、何か新しいことを形にしようと思うととても大変ですよね(笑)
だから、やりたい気持ちがものすごくあって何かにのめり込んでる人は、羨ましいというか、真似できないなって思います。自分ができなかったからこそ、すごいと思う。
でもそうやって「めんどくさいけどしょうがないか」っていろんな行動をしていく中で「100歩譲ってこっちのほうが楽しいな」っていう選択肢が出てきて、人生の舵取りをしてきました。
——ほんの少しずつでも、自分にとってより良い選択をしてきたということですね。目標ややりたいことが分からないという人にとっては、肩の荷が下りる言葉だと思います。
当時はいろんなところに顔を出してたから「ほんとにどこに行ってもお前おるな!」っ言われたこともあります(笑)
——当時の活動が今の人たちにとっても何かのきっかけになったり、新しく何かを始める時に「照雄さんを誘おう!」という後押しになる気がします。
辞めてしまったものも多いけど、何かが実を結べば良いですよね(笑)
今は、日々のことを一生懸命にやっていきたいと思っています。より良い祝詞を書きたいし、仕事や里山守研究所の活動もあるし。どんな活動も同じ『時間』を費やしてするものだから、何かが特別だとも思っていません。
何か一つのことにのめり込むような覚悟を持った生き方はできなかったけど、のらりくらりと長生きしていきたいです。子どもにいろんな経験をさせてあげたいし、この地域では長生きして高齢になってもやることがたくさんあるから(笑)
「一つのことにのめり込めない、覚悟がない生き方をしてきた。たぶん今でも覚悟がない(笑)」
とご自身の生き方を振り返った照雄さん。
でも理想を目指して足掻いた照雄さんの生き方には、照雄さんなりの覚悟が伴っていて、話を聞いた僕も含めて、勇気づけられる人はたくさんいるように思いました。
【古田照雄(ふるたてるお) さん】
屋号 :橋本屋
出身 :黒川
学校 :中京学院大学
趣味 :猫、漫画、映画
読んでくれている人に一言 :神社に行ったら是非耳を澄まして色んな音を聞いて下さい!
取材年月:2023年11月