北海道の札幌市出身で、結婚を機に白川町へ移住した長尾麗子(ながおれいこ)さん。
保育士として定年まで勤めた後、好きだった考古学を学ぶために70歳で札幌学院大学の人文学部に編入学をしました。
「好奇心だけはありますね(笑)やっぱり見たり聞いたり話したり、何かに感動できるのは生きてる間だけだと思うから」
結婚や出産を機に仕事を辞めるのが当たり前という時代に、その時の職場では初めて育児休暇を取得し働き続けた麗子さん。
前例がなくても切り開いてきたこれまでの生き方をお聞きしてきました。
やりたいことをするために、70歳で大学生に
——麗子さんは70歳で大学に編入学されたんですよね!
当時母親が亡くなったんです。それで実家の両親も、旦那の両親もいなくなってしまって。「親を亡くすってこういうことか…」って自分が空っぽでひとりになった気がしましたね。
それでふと、残りの人生を考えたんです。自分に残された人生はそう長くないし、やり残したことは何かなって。
——空っぽ…ひとりを感じることで、より自分自身のことを考えたのかもしれませんね。
それで「あぁ、私ってずっと石器とか土器が好きだったよなぁ」って。特に、何千年もの間争いが起こらなかった縄文時代にすごく興味がありました。
「あ、そうか。じゃあこれから大学に行って考古学を勉強しても遅くないんじゃない?」って思いました(笑)
–—–自分のやりたかったことに気づいたんですね!
当時は年金で生活していたので、下宿じゃなく実家から通えて社会人入学を募集してる大学を探しました。
——麗子さんのご実家がある札幌の大学に入学されたんですね。旦那さん*は何もおっしゃらなかったんですか!?
*介護施設「サンシャイン美濃白川」の施設長などを勤め、白川町の福祉の発展に尽力された故 長尾豊和氏
それは…おっしゃいました!!(笑)
「なんだよー!おれの飯はどうする!?」って(笑)
基本的には私のやることに100%賛成して自由にさせてくれましたけど、賛成してもらうまでの過程はしっかり必要でした。「反対の理由はご飯なの!?」って思いましたけどね(笑)でも、良い夫だったなとは思います。
年齢ではなく、やるべきことを考える
——実際に入られていかがでしたか?
ほんとに「良かった」の一言に尽きますね!
勉強になることがたくさんあったし、若い人たちのいろんな物の見方や考え方を知れたことも良かった。若い人は「男女関係なくみんな自由」っていう感覚を持っていたり、いろんなものに興味があるんですよ。みんな孫の世代でしたけど(笑)
——それだけ年下の人たちから学ぼうとする麗子さんの姿勢も、すごいと思います…!
授業は大変で、入学直後にレポートって言われた時は「手書きでもいいですか?」って確認しました(笑)でもさすがにレポート10枚の手書きはしんどくて、週末にケーズデンキに飛んで行って、すぐ操作できるようにセッティングしてもらいました。それがパソコンとの出会いですね(笑)
——70歳にしての、大きなチャレンジですね!(笑)
毎日講義に出て、レポートを書いて、週末は課題のために博物館に足を運んで勉強したりしましたね。とにかく必死で、人生の中でいちばん勉強した2年間でした。それで卒業単位の他にも学芸員の資格も取りました。
——すごい…それだけ大変な中、目指す資格まで取得されたんですね!
ゼミの人たちにもたくさん助けてもらいましたね(笑)パソコンを教えてもらったり、声をかけてもらったりして。
それに、意外と年齢のことは考えなかったです。その時の講義のこととか、やるべきことだけを考えていました。
憧れを叶えるために『パイオニア』になる
——真っすぐに自分の道を進む、麗子さんのこれまでが気になります。
夫とは学生の時に知り合って学生結婚をしました。
卒業してから夫の地元の白川町に来て、2人で白川町役場に就職したんです。
——ご夫婦同時に、ですか!?
珍しいですよね(笑)
その後、第一子が生まれました。当時は結婚したら寿退社するっていう暗黙の了解みたいなのがあって、産休や育休の先例がなかったんです。
それで職場復帰した時に、上司から「資格もあるなら保育士をやってみたら?」って勧められたんです。
——そうだったんですか。
子育ての勉強にもなるしと思って27歳で保育士になったんです。もう毎日が闘いでしたね(笑)ピアノも分からないから必死に練習して、無我夢中でした。
それで1年勤めた時に第二子が生まれて、職場で初めて育休を取りました。先輩から嫌味を言われることもありましたけど「嫌味を言われるのも一時のことだから」って自分に言い聞かせていましたね(笑)
——環境が整っていないなか、自ら切り開いていったんですね。
その後から産休や育休を取る人も何件か出てきて、やっぱり前例をつくると後に続く人が出てくるんだなぁって。それは私の心の支えです。「先駆者にならなきゃ!私はパイオニアだ」って思うようにしましたね(笑)
——まさに先駆者です…!麗子さんが、時代に逆らってでも働き続けようと思ったのはどうしてなんですか?
子どもの時、家の近所をビシッとスーツを着て歩くお姉さんがいたんです。電電公社(『日本電話電信公社』の通称/現在のNTTグループ)に勤めていて、父が「電電公社は良いな。しっかりした会社だし、女性も働きやすい」って言っていたのを今でも覚えています。
そのお姉さんに憧れて、仕事をしながら人生を生きていこうって思っていましたね。
好奇心に従い「今日をちゃんと生きる」
——時代や環境に捉われることなく、自分の想いに従って人生を選択してきたんですね。
他の人と違う人生を歩くっていうのは勇気がいりますけどね(笑)でもきっと、そういう資質を持った子どもだったんでしょうね。
好奇心だけで生きてきました(笑)
『窓際のトットちゃん(講談社/黒柳徹子著のノンフィクション作品)』を読んだ時に、夫に「私って黒柳徹子さんに似とらへん?」って聞いたんです。
そしたら「黒柳徹子さんは知性に裏付けられた好奇心。君は単なる好奇心!」って言われました(笑)
——それだけ旦那さんにとっても、麗子さんの好奇心が印象深かったんですね(笑)
やっぱり見たり聞いたり話したり、何かに感動できるのは生きてる間だけだと思うから。70年以上生きてるといろいろあるけど、まず今日をちゃんと生きるのが大事ですね。
——自分の想いを貫き、今を精一杯生きる。それがこれまでの麗子さんの人生をつくっているんですね。麗子さんがこれからしていきたいことはありますか?
白川町には遺跡があって、小学校では地域の歴史を学んで遺跡発掘をする授業もあります。(白川町の小学校では『総合的な学習の時間』で、町内の歴史や遺跡発掘などを行うことも→https://yeahgoshirakawa.com/news/783/)
学んだことをこれからもどこかで活かしたい思いますね!
あとはボランティアで絵本の読み聞かせも始めたので、続けていきたいです。
迷わず、これからのやりたいことを語ってくれた麗子さん。
「白川町に来てからは忙しくてなかなか札幌に帰れなかったんですけど、大学に入って十分に札幌を堪能したからもう未練はなくなりました(笑)」
今の自分がしたいと思うことを形にしてきたその生き方が、麗子さんをどんどん次の場所に連れて行くんだと思います。
パイオニアとして切り開いてきた生き方と豊富なエピソードに、勇気をもらえる時間でした。
【長尾麗子(ながおれいこ) さん】
屋号 :酒屋(さかや)
出身 :北海道札幌市
学校 :札幌学院大学
職歴 :保育士
趣味 :旅行
読んでくれている人に一言 :我以外は師なり。学びに終りはありません。
取材年月:2023年11月