白川北地区出身で、白川の中心地にある美容院『金鳥美容室』の創業者である長尾崎(ながおさき)さん。
100歳の崎さんがこれまで辿って来た波乱の人生。
当時岐阜県に1軒しかなかったパーマを当てられるお店を営み、お店を建てるためのお金を「自分の腕を担保に貸してもらった」というほどの技術を持っていたと言います。
そしてその人生での体験談の中には「ツチノコを見たことがある!」という信じがたい情報まで!
ツチノコと言えばお隣の東白川村が有名ですが…なんとこの白川町にも生息しているんでしょうか!?
さっそくお話を伺ってきました!
ツチノコ遭遇談!!
——崎さん、さっそくですが「ツチノコを見た」時について教えてください!
50年前ぐらいやったかな。ある日の朝、家の裏山で会ったんよ。
三角のこんな形の怖い顔をしとる。太くて黄色い口が耳のところまで裂けて、目の玉だけがカーっと光っとる。
怖くて「キャー!」って言って驚いたわ!
——ええ!?正面から遭遇したんですか!!(遠くから見たという目撃談かと思っていた…)たしかにこの顔は怖くて声が出ます…!
わしの他に誰もおらんから、怖いけどしっかり見届けようと思ってな。よく見るとぶ厚い鱗がついとって、ぽっと出た小さな尻尾で立っとる。
–—–なんと!立っていたんですか!!(尻尾かわいい…)それは迫力があって余計に怖そうですが…見届けようという崎さんの勇気がすごいです!
隣に住んでる人を呼びに行ったんやけど「ヘビの一種やろう」と言って来てくれへんかった。そして戻って来たら、おらへん。どっかへ逃げて行ったんやな。
ツチノコって名前も知らんかったから、わしも「ヘビの一種かな…」と思ってその日は済んだ。
——まだ全国的に「ツチノコ」が話題になっていない時代ですよね。そこからどういった経緯で「ツチノコ」の名前を知ることになったんでしょう?
別の日に仲の良いおばあさんにお茶摘みに誘われて、山を上がっていったんや。
そしたらおばあさんが「知っとると思うけど、ここらへんはツチノコが出るから気をつけよ。コロコロ転がってくるでな、音がしたらツチノコやと思えよ」って言って。
——場所によっては、ツチノコは当たり前の存在だったんですか!?なんだかすごい話を聞かせてもらっている…!
その話を聞いてもわしはよく分からんかったけど、お茶を摘んどったらコトコトコトって大きな音がして、パッと見ると下にあった溝に逃げて行くやつが見えた。
顔ははっきりせんかったけど、家の裏山で見たやつやった。
——そこで裏山で見た「ヘビの一種」と「ツチノコ」という名前が繋がったんですね。
ツチノコの存在は正直信じていませんでしたが、実際にお話を聞いていると実在している生物だと思えてきました…!
「絶対やってやる!」美容師になる決心
——ツチノコとの遭遇はきっと崎さんの長い人生のなかでも、印象に残っている出来事ですね。
印象に残ってることが人生のなかでたくさんある。今それが全部、心のなかで生きとる。
——-ぜひ崎さんのこれまでについてもお聞きしたいです。美容院を営むきっかけとなった出来事はあったんでしょうか?
小学校を卒業した後、12歳やった。今の下呂市の金山町へ髪を結う修行をしに行った。今で言う美容師やね。
近所のおばあさんが髪を結うのが好きで、それをよく見とったんやわ。
——12歳の女の子が1人で地元を出るというのは、ものすごく勇気のあることですよね。
当時は小学校を卒業したらほとんどの子が地元の工場で働いとったけど、わしはどうしても嫌やった。家の人も「崎は言い出したら聞かんで、好きなようにすりゃ良い」って言ってくれてね。
——ご家族の方の崎さんへの深い理解があったんですね。金山での生活はどうでしたか?
とにかく先生が厳しかった!
その修行が辛くて、ある晩川へ飛び込んで死んでしまった人がおってね。
自分で選んでここに来たんやから「私はそんな死に方はせん!絶対やってやる、先生って言われるまでやってやる!」ってその時に決心した。
みんながわしのことを「気がきつい」って言うけども、気がきつくないとおれんかったんや。
——厳しい環境だからこそ、崎さんのなかに決心と強さが生まれたんですね。
100歳にもなった今では、ええ思い出やね。
当時の金山は芸者や女中さんがたくさんいる町で、雨が降ってくると「崎ちゃん、傘持ってきてくれんかや?」って頼まれる。大急ぎで傘を持って行くと、1銭とか2銭の駄賃をくれるんよ。
それを大事に大事に取っておいてね、そうすると盆や正月に一晩でも実家へ帰れる。
最後まで『人との関係性』に染まっていたい
——その厳しい経験を乗り越えて、白川に戻ってこられたんですね。
白川へ戻ってきて髪を結うようになってから、みんなが褒めてくれた。お嫁さんの髪もたくさん結わせてもらった。
「かわいい嫁さんやねぇ!上手や!崎さんはいったいどういう手を持っとるよ!」そんなこと言ってもらいながらやってね。美容院があんまり無い時代やもんで、寝る暇もないぐらい忙しかった。
–—–厳しい修行を乗り越えたからこその技術ですよね…!今のように短く切らずに、長い女性の髪を「結う」というのはきっとものすごく労力と技術が必要なお仕事だと思います。
そうやね。パーマも長い毛を巻かなあかんから大変やった。当時はパーマを当てられるのが岐阜県に1軒しかなかった。
——1軒ですか!!最先端の技術だったんですね!それだけお忙しいなかでも印象に残っていることはありますか?
佐見村*の村長さんが結婚する時、わしにお嫁さんの髪を頼まれてね。
その結った髪を見た村長さんが「良かった!すごい技術や、この人は先生やぞ!」って言ってくれて、そこからみんな「先生」って呼んでくれるようになった。
恥ずかしいやら嬉しいやらで、顔が真っ赤になったよ(笑)
*1956年に白川町、佐見村、黒川村、蘇原村が合併して現在の白川町となった。
——崎さんが決心した「先生と言われるまでやる」というのが、そこで叶ったんですね!
その村長さんや、他には家を間借りさせてくれる人、お店を建ててくれる人、そういういろんな人に助けられた。
水害があって店が流されたり、間借りさせてもらう場所の関係で、白川町で8回もお店の場所が変わったんや!
——8回ですか!!それは周りの方の助けがないと続けられないですよね…!
水害の時はなんとかパーマの機械や少しの荷物を持ち出して避難したけど、その年の冬はストーブもなかった。お金も何にも無くなってしまった。
姉さんがやってた旅館に間借りさせてもらってね。姉さんはほんまに偉くて立派な人やった。
——そこからまたご自身のお店を建てられたんですか?
いつまでも姉さんに世話になってたらあかんと思ってる時に、ある人に「良いところ見つけたから、そこに店を建てろ!」って勧められた。
「金があらへん」って言ったけども「なんとかなるわい!お前の腕ならなんとかなる!」って言って、その人らが材木を組み合わせて家を建ててくれた。
嬉しかったなぁ。これが本当の第二の人生やと思った。
——生き方を強く心に決めて行動していた崎さんに、きっとみなさん惹かれるものがあったんですね。
「自分はこれになりたい!」って度胸を決めた子どもの時から、辛いこともあったけどいろんな人に大事にしてもらって、わしは幸せやったなぁと思うよ。
助けてもらったからこそ「人のためになろう」と思って生きてきた。人は大事に、親切にせなあかん。物は大事にせなあかん。そう思って生きてきた。
——崎さんと周りの方がお互いを助け合ったからこそ生まれた関係性が、きっとみなさんの幸せをつくっていたんですね…!
ちなみに、これから崎さんがやっていきたいことはありますか?
家でみんな一緒にご飯を食べて「おはよう」から「今日何があったよ」って、そういう話をここでしていたいね。
最期を迎えるまで、会話をして生まれる喜びのなかに染まっていたいと思うよ。
ツチノコとの出会いから、美容師としての過酷な境遇など、100年という長い年月をとても丁寧に語ってくれた崎さん。
昔を思い出しては、笑顔になったり涙ぐむ瞬間があり、今もなお当時の記憶と共に生きる崎さんだからこその言葉を、じっくり噛みしめていたくなりました。
崎さん、ありがとうございました。
【長尾崎(ながおさき) さん】
出身 :白川北地区
学校 :坂ノ東尋常小学校
職歴 :美容師
趣味 :花壇の花の手入れ、編み物
取材年月:2023年07月