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「半分野暮、半分度胸でやってきた」

黒川開拓団の記憶や、一生懸命働いた日々の『長い90年の人生』

佐見地区で生まれ、戦時中の昭和17年、小学1年生の時に黒川開拓団の一員として満州に渡った林宥(はやしすすむ)さん。

両親を満州で亡くし、帰国後は家族がバラバラになるなか養子先の製材屋を30歳で継ぎ、町内で多くの家の建築に関わってきました。

 

「半分野暮、半分度胸でやってきた」

と振り返るこれまでのことをお伺いしました。

満州での日常生活

——宥さんが満州に渡ったきっかけは何だったんでしょう?

僕の2番目の兄貴が、今でいう中学2年生の時に義勇軍*へ行くって志願したんやね。

それに役場から議員さんやら区長さんが、満州に行って開拓する人を勧誘にござったんやわ。それでお袋が「私らも行こまいか」って、行くことになった。

*満蒙開拓青少年義勇軍:15歳前後の少年が、満州の開拓と警備を担うため創設された組織

 

——ご家族みんなでですか?

そう、いっしょに。うちは馬を飼ってたもんで、その馬もいっしょに満州へ行った。

佐見だけでは戸数が少なくて団ができんので、黒川開拓団*って名前で行くことになったんやね。

*黒川村(現在の黒川地区)から85世帯、佐見村(現在の佐見地区)から38世帯、その他で6世帯を集めて総勢129世帯、662人で満州開拓移民団が結成されました(松原文枝 「刻印 満蒙開拓団、黒川村の女性たち」(株式会社KADOKAWA)から参照)

 

——そうだったんですね。

行くのに船で1ヶ月かかるで。「あかい あかい あさひが のぼる」*なんちゅう本を、学校からカバンに入れて持ってった。

着いて2~3ヶ月経ってから新しい学校ができて、僕らのクラスは男12人、女が6人か7人か。佐見からは2人か3人ぐらい、黒川は大勢やったね。

*『アサヒ読本』と呼ばれる、1941年から1945年まで国民学校初等科で使用された教科書のことか。冒頭が「アカイ アカイ アサヒ」で始まります

 

お話する宥さん

黒川開拓団が向かったのは『陶頼昭(とうらいしょう)』という駅でした

 

——当時の生活はどんな感じだったんですか?

満人(満州の人、現地の中国人)を住んでる家から追い出してまって、そこに僕らが入った。

開拓をした団体もあると思うけど、僕らのところは「開拓団」っちゅうのは名前だけで、満人がつくった家や畑を軍隊が取り上げたんやわ。

6軒ぐらいの家族が1団体になって「班」って言いよった。その班が共同で畑や、田んぼもちょっとあったけど、つくってね。

——「満州での暮らしは厳しかった」という話を聞いたことがありますが、実際はどうでしたか?

まあ、実際寒かったり暑かったりしたね(笑)

家は土のブロックやね。冬はマイナス20度以下になるから、家の入口で焚き物をして「オンドル」っちゅう、床の下に煙突の煙を通して暖房するわけ。

雪が2メートルも積もるもんで、そこで遊んだり。兄貴と罠をかけて山ウサギを20匹も30匹も捕まえて食べたりね。冬は面白かったよ。

夏はその反対に暑うて暑うて敵わん(笑)近くに松花江って川の水が流れてできた湖があったもんで、僕らはまだ子どもで泳げなかったけど、兄貴らについて行った。満人の子どもたちもいっしょに遊んどったね。

——気候が大変だったんですね。

ただ食べ物は、十二分にあったもんで。耕地はね、石がぜんぜんない。砂地の平らなところで、作物はじゃがいもとトウモロコシが主作。アワ、たかきびもつくったし、食料を日本へ送るっちゅうことで出荷しとった。

夜になるとウサギもくるが、キツネもくる。オオカミもおったよ。なんでも来るところやったあそこは(笑)

僕らが行ったのは昭和17年やと思うけど、終戦までの2年半はそうやって生活して、まったく治安良かったんやて。

両親を失った、終戦後の満州

——黒川開拓団は敗戦後、現地の人たちの襲撃から守ってもらうために、若い女性に旧ソ連軍への「性接待」を強いたという過去があります。(参照:https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/ann2.html

うん、犠牲になってくれた。それは子どもらもみんな知っとった。

3年目の8月に日本が万歳してまったもんで、満人が「元々はおれの家やでお前ら出てけ!」って、なんにも荷物貰えずに、着物着ただけで追い出されてまって。

そりゃまあ、終戦になったらあんなもんかなと思った。

——実際に戦争を感じたのは、終戦してからというか。

そうです。農作物を出荷する木造の倉庫があって、そこで冬を越さなあかんことになった。

2人目の兄貴は義勇軍へ行っとったけど、僕らの住んでる集落にこっそり逃げてきた。人に見つからんように、夜、トウモロコシの畑とかを何日も歩いて。

それで「木造の壁1枚では冬は越せん」と。義勇軍での経験があるから、地下室を掘ろうって、スコップで砂を掘ってね。廃材を持ってきて屋根にしたり、畑にあるものを焚いて暖房しとったわけやね。

——本当に生きるか死ぬかの日々ですよね。

それで冬を越すことになったけど、食料がない。満人は分けてくれへんし。

ひと冬を越して、次の秋9月になると寒くなるしそれまでに日本に帰らなあかんってことで、松花江を大人は浅いところを通って、僕らは船で送ってもらった。鉄橋が爆破されて落とされてまってたんやわ。

川を渡ったところに徳恵(トッケイ)って駅があってね。そっから汽車が来たわけやけど、馬やら牛やら家畜を運んだ後で、そこに乗った。みじめやったよ。

お話する宥さん

「船に乗るところにいる満人にお金を払って乗ろうとしたら、金持って逃げてまっておらんわけ。また新しい人に時計やらなんかを出して、船で渡してもらって。2晩ぐらいは野宿をしたと思う」

 

——それは開拓団みんなで動くんですか?

みんな一緒。開拓団は600人いて、病気やら、戦争に満人にやられたりなんかして、日本へ帰って来たのは400人やでね。200人は現地で亡くなってまった。

僕らのお袋は、いちばん下の子が生まれた時からちょっと悪かったもんで、1年早く亡くなった。親父は45~46歳でまだ働き盛りやったけど、栄養がないもんで。線路の直しやら、なんやかんやに引っ張られて、栄養失調で終いに亡くなっちまった。

おった穴の中で、壁にもたれて死んでまったことを僕、覚えとる。8歳やったでね。

——そうだったんですね…

亡くなった方は近くの山に埋めてね。

それで帰国が近くになった時には、僕だけ赤痢になってまって。「水は飲んじゃあかんぞ」ってくどいこと言われてたんやわ。でも友だち5~6人おって、喉がかわいて「水にあたっても、いっしょに死ねるで飲もまいか」って、僕はちょっと余分に飲んだとみえるわ(笑)

北京から汽車に乗って日本に帰る支度をしたけど、僕は病院のベッドで、何にも食べれず、何にも飲ませてくれんかった。

けっきょく1ヶ月入院させられて、いちばん上の兄貴が「坊主1人ではあかん」と残ってくれた。あとの4人の兄弟は僕より先に日本へ帰ってきたわけ。みじめなもんやったよ、ほんとに。よう生きて帰って来れた。

「半分野暮、半分度胸でやってきた」90年

——帰国までが大変ですが、ご両親を亡くされて帰国してからも大変ですよね。

僕は2ヶ月ぐらい遅れて帰って来たけど、家は売ってまってるし、親は2人とも死んでまってる。いちばん上の兄貴だけはちっさい小屋をつくって入ったけど、あとの兄貴や弟や妹は、子どものないところへ貰われた。

僕もそういうふうで、養子として来たんやわ。「お前何年生や?」って聞かれて、数えると5年生やった。小学校3年生も4年生も学校行っとらへんもんで(笑)

——生きるための日々を乗り越えてきたわけですもんね。

僕らは、アメリカと戦争してることなんて知らなんだでね。日本へ帰って来て学校行ったら、友だちはみんな知っとるけど、僕らはロシアや満州人と戦争しとったと思っとるもんで。恥ずかしい話やわ。

——戻ってからの生活はどうでしたか?

春は田んぼを牛で代掻きしたり、秋になると稲を刈ったり。子ども心に「農作業を手伝わんことには養ってもらえん」って考えがあるもんで、田植えの忙しい5月6月、秋の9月と10月はほとんど学校行っとらへん。

——なるほど…

昭和26年に中学校を卒業した。同級生40人ちょっとのなかで6人か7人高校へ行ったけど、僕は育ててもらった恩があるで、行けん。

家で百姓をしとったけど、3つ上のお姉さんが婿養子をもらって。百姓がそう大勢おってもあかんってことで、徳三郎っていうおじいがやっとった製材屋に来たわけ。

木を切ったり、運び出すためのケーブルをつけたり、瓦やら材木を運んだり。

危ないことも、いろいろやったわ。製材屋も大勢あったけど、僕みたいに1人でこんだけやってきた人はそんなにないと思うよ。

有限会社『出合』前の様子

共同で経営していた方が亡くなってからは、宥さん1人で経営してきたという有限会社『出合』

 

——中学校卒業から、製材一筋なんですね。

そう。それで30歳で製材屋を継いで、来年で60年や。

継いだのが昭和40年のちょっと後やったもんで、家ができるブームでね。この集落だけでも20軒新しい家をつくらせてもらった。人気が出て「おれんところもつくるつくる!」って、ありがたかったよ。

——宥さんが経験した厳しい環境は、宥さんにとってどんな意義があったんでしょう。

半分野暮、半分度胸でやってきたわけやね。ぶつかるとこ行ってぶつかりゃええわっていう(笑)

子どもの時に養子に来て、育ててもらった恩返しやと思って一生懸命働いて。そしたら田んぼや畑、山もちょっと貰って、おじいさんのところへ来た。

来年90歳やでね。長い人生やったわ。いつ死んでもええと思っとるが、なかなか死ねんわ(笑)

宥さんの後ろ姿

 

「知ること」は、自分との繋がりを取り戻すことだと思います。

宥さんが満州に渡ったきっかけは、当時の村役場の人たちの言葉がきっかけでした。宥さんの経験や仕事は、今の僕たちの生活にも大きな影響を与えています。

その繋がりを想い、この記事が、また新たな繋がりのきっかけになることを願っています。

 

【林 宥(はやし すすむ)さん

屋号   :〇ト(まると)

出身   :佐見地区/白川北地区

学校   :坂ノ東中学校

職歴   :製材屋

趣味   :魚釣り

 

取材年月:2025年10月 

※記事の内容は取材当時のものです

  • 取材執筆/写真:

    澁谷尚樹

  • 監修:

    白川町役場振興課

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家を『屋号』でよびあう慣習が根づく白川町そんな町の想いを集め人と集落と未来をつなぐ